デジタルサイネージとアーティスト

そもそも、このデジタルサイネージのサイトを立ち上げた最大の目的は
アーティストとのコラボと、若いクリエイターに活躍できる場を提供することである。
その道のりは険しく遠いいが、楽観主義をモットーに前三後一で進んで行きたい。
ここでは、実際に私が仕事をご一緒させて頂いたアーティストや、その作品で出来る
デジタルサイネージのコンテンツなどアイデア。遠い将来に描いている
デジタルサイネージ・コレクションとデジタルサイネージ・プラットフォームなど
デジタルサイネージとアーティストについて綴ります。


ブログ#031 デジタルサイネージとサンドアート

みなさんは「サンドアート」をご存じであろうか?「砂の芸術」といえば、鳥取の「砂の美術館」を想像する人もいるだろう。ここは世界初、「砂」を素材にした彫刻作品を展示する美術館として有名だ。長い年月を経て自然によって作り出された「鳥取砂丘」を象徴する意味でも貴重な美術館だと思う。しかし私は言っているサンドアートとは彫刻では無く「砂の絵」である。単純に砂で絵を描くだけでは無く、ストリーや音楽に合わせて画いては消し画いては消して物語を進めていく。その場面展開は美しく、アートそのものである。その存在は知っていて海外のアーティストが有名であった。私とサンドアートとの出会いは2005年の夏に新・江ノ島水族館のデジタルサイネージを担当したときである。デジタルサイネージといってもプロジェクション・マッピングで、「ウミガメの砂浜」と呼ばれる屋外エリアをマッピングして欲しいとの要望であった。本当の砂浜や池などに何を投影したらよいか悩んだ末、砂浜なのだから、そこに「砂の絵」を描いてしまおうと思ったのである。私の発想は何時も単純である。そして日本人のサンドアーティストを全て調べて依頼したのが、サンドアーティストの伊藤花りんさんであった。水族館の意向もあったので、私が演出と音楽を担当し、花りんさんに砂絵を描いてもらった。そしてその年の夏にはアオウミガメの生態をストーリーにした「ウミガメの夢」とクリスマスには、海中のクリスマス・ツリーを探す冒険「海からのプレゼント」の2作品が公開され好評を得た。その後、花りんさんとのお仕事は続いてバンドのMVやイベント、自主発表会など多くの仕事に携われた。いつがデジタルサイネージ用にオリジナルストリーのサンドアートを作りたいと相談もしているが、まだ実現できていない。サンドアートの作品を色々な場所のデジタルサイネージで配信したいとの想いは変わっておらず、静かに時を待っている。サンドアートには見る人を包み込む不思議な魅力が詰まっている。サンドアートに興味のある方は検索してみて欲しい。美しいアナログの力に魅了されることだろう。

June 05th, 2020 Toyosaki’s blog


ブログ#042 障がいを持ったカメラマン

今日は、私の心に残っているカメラマンを紹介したい。1959年山梨県生まれ、山梨県南アルプス市在住の名執弘人(ナトリヒロト)氏である。彼との出会いは1998年の夏である。私が山梨で行われた大きなイベントの演出を担当させて頂いた時に、そのイベントの記録写真を担当していたのが、重い障がいを持った名執氏であった。松葉杖を突いてゆっくりと練習会場に入ってきた名執氏はカメラバックを開き撮影の準備を始める三脚を据えてカメラをセットするまでに優に30分は掛かっている。そして一度決めた場所からは離れない。会場の片隅で何枚の写真をとったのであろうか?私は演技指導をしながらも、いつも名執氏の存在を確認していた。山梨に通い続けて5ヶ月。ようやくイベントの構成が固まった。吹奏楽団の演奏をメインにしたシーンで山梨の歴史や自然など、写真をスライドにして投影する事が決まった。山梨で暮らす多くの方々に参加して頂くのがイベントの趣旨だったので、写真も公募となり多くの方から集まってきた。1枚1枚紙焼き写真を拝見して行く中に、現像された36枚撮りのポジフィルムが入っていた。フィルムを広げて愕然としたのは、何と36枚の写真が全部、異なった場所で撮影されているのである。アングルやサイズを変えているのでは無い。ひとつの場所で一度だけシャッターを切り、別の場所に移動してそこでも1枚のみ撮影をする。これを36の場所で撮影された1つのフィルムが目の前にある。ポジフィルムの写真は肉眼では判断できない。しかし、そう言う人もいるかも知れないと思い、ライトテーブルとネガ用ルーペを持参していたので問題無く拝見できた。感動!1枚1枚が本当に素晴らしい作品であった。当初は応募してくれた作品の中から、少しでも多くの方が撮影した作品を投影したいと思っていたが、このポジフィルムのみで私の持っていたシーンのイメージは完結してしまった。主催者を説得してこの写真だけ使用する事で了承を貰った。どんなカメラマンの方なのか、挨拶とお礼を言いたいので是非会わせて頂きたい旨を主催者に申し出た。その1時間後にそのカメラマンが演出室入ってきた。名執氏であった。全てが一瞬で繋がった。名執氏と懇談した際にこの36枚撮りのフイルムを一本撮るのにどれ位の時間が掛かっているのかを聞いた。返答は1ヶ月掛かったのこと。場所に行くのに数詞間。ポジションを決めセッティングするのに1時間。シャッターチャンスを待つこと数時間。一度シャッターを切ったら、その場の撮影は終了、一日が終わる。今のデジカメの世界では無いので現像するまで作品は確認出来ない。その場でテスト撮影して露出やシャッタースピードも修正出来ない。それなのに36枚のフィルムの全ての写真が素晴らしかった事は、私にとって奇跡でしかない。イベント終了後の翌年、まだまだ無名の名執氏の写真を多くの人に知って貰いたく、ある月刊誌でカラー8ページの特集を組んで貰った。写真のチョイスや写真のキャプションなどを相談しに名執氏と再会。「基本的には全て任せます」とのこと。出来上がった雑誌の特集は好評を得た。随分疎遠になっていたが、デジタルサイネージのサイトを立ち上げた時に、名執氏の写真作品を是非デジタルサイネージのコンテンツとして売り出したいとの思いから、久しぶりに連絡を取った。重い障がいに併せて事故による怪我など、状況は厳しさを増していた。彼の作品には力があり、人の心を揺さぶる。もっと多くの人に彼の写真を見て頂きたい。しかし、まだまだ私もピクトパスカルも微力であることが悔しく情けない。何としても、このウィズ・コロナを克服してデジタルサイネージ事業を前に進めていこう。名執氏の著書に「障害があるから、見える世界もある」があるので、興味がある方は読んで頂きたいが絶版でなかなか手に入らないのが残念である。

July 3rd, 2020 Toyosaki’s blog


ブログ#047 デジタルサイネージとペイント・アート

私がデジタルサイネージのコンテンツに加えたいアート作品に「ペイント・アート」がある。いちがいに「ペイント・アート」と言っても、色々な表現方法があるので出来上がる作品は様々だ。私が一緒にコラボしたいのは、ペイント・アーティスト・Roccó Satoshi(ロコ・サトシ)さんである。ロコさんは、横浜を拠点に活動しているペイント・アーティストで、彼との出会いは1983であるから四半世紀前にさかのぼる。ちなみにロコさんは、自身を「ペイント・アーティスト」ではなく「ウォールペンター」と表現しているが、ここでは「ペイント・アーティスト」として綴らせて頂く。ロコさんが創作のキャンバスに選んだのが、東急東横線の高島町駅から桜木町駅までの東横線のガード下であった。およそ1.3km続く一直線のガードは、当時、横浜の人からは「横浜の万里の長城」と呼ばれ、その1.3kmのガードの壁は、目の前の国道16号を走る車の排気ガスで真っ黒に汚れていた。ガード下にあったのは、現在の「みなとみらいに」抜けられる2つのトンネルと高架下に無理矢理作った2つの古い工業事務所だけであった。ロコさんは1970年代後半から、このガードをキャンバスとして絵を描きはじめる。白いチョークだけで描いたシンプルなグラフィティーであった。1983年に、たった2カ所しかなかった事務所をドラムの練習場所として借り、ガードの下で暮らしはじめたのが19歳の私であった。最終電車の桜木町で降りて、ガードを歩いて自宅に向かう間、数回ロコさんを目撃した。普段は1日で数人しか通らないこのガードがロコさんの「安全」なキャンバスで、もし訴えられれば犯罪に値する為、ロコさんの創作活動はいつも深夜であった。私もロコさんが私に警戒している事を察し、無理な接触を避けていた。アイコンタクトのみで、いつも応援をしていた。その後、ロコさんはアーティストと認められ1989年の横浜博覧会、1992年サンディエゴ・横浜現代美術館、アメリカ西海岸の壁画制作など、活躍の場を広げていった。このころロコさんの画風がニューヨークで活躍するキース・ヘリングに似ている事で「パクリでは?」との話も出たが、ロコさんはキース・ヘリングよりも10年以上前に画風を確立しているので、この場でパクリでは無いと否定しておく。そしてロコさんの活躍により、我が古巣の桜木町のガード下も横浜市から認められ、スプレー・アーティスト達のキャンバスとして提供される。しかし、ここでも問題で起こる。人の作品の上に平気で上書きが始まった。それも優秀な作品の上に醜い暴力的な作品を書いたのである。公のキャンバスなのでルールはアーティストのモラルに任せるしかない。そして桜木町のガード下は、一度、全ての絵が消され、真っ白いキャンバスにされてしまった。これは、日本の社会全体の問題だと考えなくていけない。少なくても私はそう考える一人である。学校、家庭、街、これらが三位一体となって少しずつ変えていくしかないであろう。経済成長のみを重視してきた日本社会のひずみが、今その膿を溢れ出して、それが特に若い世代の生活と身体と精神を蝕んでいる。そして現在のウイルスや自然災害との戦い。すべてが子供達の自由な精神と可能性を奪っている。このガード下を復活させる事は、この街づくりに大きな意味を持つはずである。街の、地域のコミュニケーションの場になりえるはずである。現在このガードは東横線が地下に潜り、電車は通っておらず、遊歩道として開発が進められている。再びキャンバスとしてアーティストに開放される日が来ることを望んでいる。そして私はデジタルサイネージを通して、ロコ・サトシさんのこれまでの活動や作品を多くの人に知ってもらいたいと思っている。近い将来、ロコさんとの再開が楽しみである。

July 15th, 2020 Toyosaki’s blog


ブログ#048 悪魔が作った楽器・バンドネオン

デジタルサイネージは映像配信を目的にしたメディアである。そこには当然音楽やナレーションなどの「音声」も含まれる。このサイトも動画には音楽を着けてあるし、選曲にも私なりのこだわりがある。曲のほとんどは海外のミュージック・ライブラリーから購入している。本来であればオリジナルを制作し、サウンド・クリエイター達にも加わってもらいたい。しかし残念ながら、まだそれが出来る環境が整っていない。そんな状況であるが、私の中でどうしてもコラボしたいアーティストがいる。それは、バンドネオン奏者の小川紀美代さんである。小川さんは世界でも数少ない女性バンドネオン奏者のひとりで、2003年にはアルゼンチン最大の音楽祭である「コスキンフェスティバル」に日本代表として参加している。私が小川さんと出会ったのは2017年に行われた元宝塚歌劇団の大空ゆうひさんのコンサート映像演出を担当した時であった。演奏そのものも素晴らしかったが、そのチャーミングな人柄に惹かれ、それ以降ご一緒させて頂いている。特に2018年にはブエノスアイレスにて、バントネオンの神様と讃えられているアニバル・トロイロが実際に使用した愛器(アルゼンチン国立タンゴ博物館所蔵)でレコーディング。その後トロイロの孫であるフランシスコ氏と共にトロイロのバンドネオンで日本ツアーを行った。また、アニバル・トロイロのドキュメンタリー映画「Pichuco」の日本語字幕版を制作。コンサートと映画上映による企画でタンゴ、アルゼンチン文化の普及に尽力した。このコンサートの映像演出と映画の字幕制作も楽しい思い出だ。バンドネオンはタンゴの伴奏が一般的なイメージだが、「悪魔が作った楽器」と呼ばれるほど複雑な演奏方法が必要で、重さも8キロもある楽器である。キャシャな小川さんが縦横無尽に楽器を操る姿も魅力のひとつだ。そして小川さんの真骨頂はオリジナル曲である。本年制作された「Infinity(無限大)」は全曲オリジナル・ソロ演奏で、バントネオンのCDとしては珍しい。このオリジナル曲でデジタルサイネージ用の動画コンテンツを制作したいのである。もちろん小川さんの「音」へのイメージを壊してはいけないので、制作は大変だと思う。しかし音楽に映像を着ける作業もまた楽しいのである。普段は「きみちゃん」と呼ばせて頂いている。きにちゃんに音楽制作のポリシーを聞くと「聞いている人を裏切り続けて、最後は自分も裏切って終わる」と笑う。そして、きみちゃんの家には、冷蔵庫、テレビ、洗濯機、掃除機などの家電がない。そんな不思議でチャーミングな女性と親しくさせて頂ける私は幸せ者である。

July 17th, 2020 Toyosaki’s blog


ブログ#061 盲目の天才ピアニスト辻井伸行を育てた母

最近YouTubeではまっているのが、盲目の天才ピアニスト 辻井伸行である。2009年6月に行われた第13回ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクールで日本人初の優勝を手にする。それ以来、国際的に活躍しているアーティストで現在まで31枚のアルバムを出している。辻井くんは1988年東京出生まれる。出生時から眼球が成長しない「小眼球症」と呼ばれる原因不明の障害を負っていた。その辻井さんの才能を見抜いたのが、母・いつ子さんであった。いつ子さんが辻行くんの「耳の良さ」に気づいたのは生後8ヶ月頃であったらしい。ショパンの「英雄ポロネーズ」のCDをかけると。曲の盛り上がる場所に来と、決まって辻井くんは伏間を足で蹴ってバタバタとリズムをとるのであった。そしてそのバタバタは演奏と見事に合っていたという。あまりにも毎日聴きすぎて、CDが傷つき壊れてしまった。いつ子さんは辻井くんの喜ぶ顔が見たくて、同じ曲の入ったCDを買い辻井くんに聴かせた。しかし辻井くんは全く喜ばなかった。理由はCDの演奏者が違っていたからであった。前と同じCDを聴かせると、辻井くんは再び足をバタバタさせたという。辻行くが好きだったのは「英雄ポロネーズ」では無く、「ブーニンが演奏する英雄ポロネーズ」だったのだ。それ以来、子どもに眠る「何か」を見つけるため、日々「観察」するいつ子さんは、何度か辻行くんの「耳の良さ」を気づかされ、この子には「音に関する特別な才能」が眠っているのではないか。と想うようになる。そしてその想いが、この後の子育てにおける、一筋の希望の光になったと語っていた。母・いつ子さんばかりが、辻井くんの才能を見抜いて育てたイメージがあるが、決してそんな事は無いであろう。辻井くんの父・孝さんは、辻井産婦人科の院長先生だ。余談だが辻井産婦人科は我が家から一番近い産婦人科で、ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクールで優勝した時は、辻井くんって辻井産婦人科の院長先生の息子らしい。と地元では大変な盛り上がりをみせた。ハンディを持った辻井くんの優勝は地元の誇りとなったのである。なので、私は今でも「辻井大先生」を「辻井くん」と呼ぶ。でも何故か私の二人の息子は辻井産婦人科では出産していない。父・孝さんは、いつ子さんとは違って、一歩引いたところで息子の将来を案じ、自立への道を探ったらしい。常に冷静沈着でとても厳しい父親だったそうだ。辻井くん自身も「僕を一番サポートしてくれたのは母だけど、陰で支えてくれたのは父でした。」と語っていた。辻井くんの演奏も本当に素晴らしいと思うのだが、私は演奏が終わった時に、腰を90度に曲げてお辞儀をする姿に心が打たれる。超一流の人物は人間性も一流であると感じるのは私だけではあるまい。日本を代表するピアニスト・辻井伸行の活躍を期待して止まない。我が子の才能を伸ばしたい方、まだ間に合いそうな方は、いつ子さんの「わが子の才能を引き出し、伸ばすか」の公式サイト「辻井いつ子の子育て広場」もあるので参考にして欲しい。私はもう間に合いません。子育て惨敗です。デジタルサイネージでも子育てコンテンツとか考えて見ようかな。

August 28th, 2020 Toyosaki’s blog