デジタルサイネージと旅の恥

国内外を問わずロケは楽しい「旅」である

撮影の醍醐味のひとつはロケである。国内であれ、海外であれロケは楽しい。
特に海外ロケなどは、それだけでワクワクとドキドキが止まらない。
なぜなら予想も付かないハプニングが多く起こるからだろう。
そのハプニングを乗り越え、無事に撮影を成し遂げた後の「美酒」がたまらない。
デジタルサイネージにあまり関係ない話しも多くなるであろうが、
ロケで起きたハプニングとご当地のオススメ料理なども紹介します。


ブログ#003 デジタルサイネージと屋久島・縄文杉

 屋久島といえば1993年に世界遺産(自然遺産)に登録され年間等して観光客の絶えない日本を代表するパワースポットである。特に樹齢7200年(諸説有り)を超える縄文杉は幹の周囲が16.4mもあり波打つヒダとコブに覆われている屋久島の象徴的な杉である。私も2度撮影に訪れているが、その存在感に圧倒されたものだ。初めて訪れた時は通常のビデオ収録であったので当然16/9の横画面撮影である。美しい森や透き通った川、屋久猿や屋久鹿などの動物など被写体に困ることはなく順調に縄文杉を目指した。しかし縄文杉を目の当たりにして困ったのが横画面ではその迫力を捉え切れないのだ。もちろんそんな事は百も承知で望んだのだが、ティルトアップしても画が決まらず、樹齢7200歳の仙人の前では私は無力な44歳の赤子であった。

 10年前に2度目のプライベート撮影に臨む。今度は全てが縦構図での撮影に挑戦した。これがデジタルサイネージのコンテンツ制作の依頼だったら面白かったが、当時はまだ縦型ディスプレイのデジタルサイネージは海外ブランドショップのウインドで流されていたファッションショーぐらいであった。動画制作に携わっていてスチールカメラマンに嫉妬していたのは、この「縦構図」で動画作品が作れないことであった。屋久島で収録した縦ムービーを編集して完成させた時には、今までにない満足感と色々な発想が溢れてきた。いずれは普及する縦型ディスプレイのデジタルサイネージ時代に思いを馳せたのが屋久島・縄文杉であった。

October the 25th, 2019 Toyosaki’s blog


ブログ#082 詩聖・タゴールにあこがれて

 最近、特に昨年は海外にも行けていないので昔のお話です。インドのニューデリーへ、イベントのお仕事で2年続けて訪れた。その時は映像ではなく音響スタッフとして同行させてもらった。一応ミュージシャンだったという肩書があるので、基本的なことは理解していたつもりだ。最初に訪れたのは1991年の湾岸戦争が勃発して一週間後であった。ニューデリー空港に着くなり、厳重な警備隊に囲まれ荷物チェック。仕事で来たので、当然、電池やストップウォッチ、マグライトなど、最低限のツールは持っていったのだが、電池とストップウォッチで「爆弾」を作る疑いをかけられ、なかなか検閲を通してくれない。やっと通してもらいホテルに向かうと、道中で3回も検問があり、ライフルを向けた警官が荷物チェックをする。大先輩の「知恵」で切り抜けていくのだが、その「知恵」は、ここでは証さないでおこう。

 目的のイベントが無事に終了した後に、ニューデリー郊外を撮影してまわった。もちろんスタッフはインド人だが、ちゃんとしたプロダクションだったので、カメラは業務用のSONYのβカムであった。この撮影が、私がプロとしての初めての撮影となったのである。この撮影が無かったら、おそらく「デジタルサイネージのピクトパスカル」も存在していなかったであろう。ガンジス川を撮影した時には、やはり感慨深いものがあった。川上から、沐浴している者、洗濯をしている者、体を洗っている者、排泄をしている者、水を飲んでいる者、そしてその脇を死体がゆっくりと流れていく。そんな壮大な大地と文化から生まれたのが、詩聖・タゴールだ。

 インドに行ったことをきっかけにタゴールを知り、勉強をした時期があった。「ラビンドラナート・タゴールは、インドの詩人 、思想家、作曲家。詩聖として非常な尊敬を集めている。1913年には「ギタンジャリ」によってノーベル文学賞を受賞した。これはアジア人に与えられた初のノーベル賞でもあった。 インド国歌の作詞・作曲、タゴール国際大学の設立者でもあった。 ウィキペディアより」。タゴールの名言をいつくかご紹介したい。「真の友情は蛍光のようなもの。すべてが闇に包まれるとき、より一層と輝く」「花はその花弁のすべてを失って果実を見いだす」「人間は、空間と時間との領域の中に住むほかに、もう1つ別の住居を持つ。自分の内面の王国の中に」「海を見ているだけでは、海は渡れない」。「人生から太陽が消えたからといって泣いてしまえば、その涙で星が見えなくなってしまう」掲げればきりがない名言ばかりであり、コロナ渦では更に光彩を放つ「言葉」だと痛感している。「言葉」の持つ力は大きい。デジタルサイネージも広告も「言葉」がなくては成立しない。こんな時期だからこそ、もう一度、タゴールの「力のある言葉」に触れる機会を作ろうと思っている。

January 5th, 2021 Toyosaki’s blog


ブログ#095 国連本部の取材

 ニューヨークにある国連本部ビル(United Nations)に取材に行った時の出来事である。国際連合」は、国際連合憲章の下で1945年に設立された国際機関で、第二次世界大戦を防げなかった国際連盟の様々な反省を踏まえ、1945年10月24日に51ヵ国の加盟国で設立された。2020年4月現在の加盟国は193ヵ国であり、国際組織の中では最も広範で一般的な権限と、普遍性を有する組織である。本来この国連の担う役割は重要で、特に国際的な紛争問題や環境問題は、国連がイニシアティブを取って推進すべく組織である。しかし近年は、国連加盟国の中でも国連決議に従わない国の存在で、国連の権威が下がってきていることはとても残念だ。国連ビルは通称マッチ箱と呼ばれる奥行きのない四角い建物である。ある意味デザイン性のない建築に見えるが、実際に行ってみるとシンプルだが実に存在感のあるビルであった。

 取材は、国連に務める日本人本部職員の活躍を収める内容であった。ニューヨークでは国連の他にもコロンビア大学の取材が同時にあったので、国連に使える時間は3時間ほどであった。予算も時間もなかったので、事前にメールで収録の段取りをとって向かった。前日の夜のニューヨークに着き、ホテルで日本人本部職員と取材の確認をし、翌日国連ビルの前で合流。流石に国連の本部職員だけあって仕事ができる。やることにまったく無駄がない。取材の申請もしてあったし、問題なく3時間で収録できるであろうと思っていた。しかし、そうは問屋が下ろさないのが海外取材である。国連ビルの守衛が私をビルに入れてくれないのである。本部職員が同行して、しかも申請までしてあるのに駄目だという。当時は国際的なテロ事件が多く勃発していて、国連ビルもテロのターゲットになっていたことはわかっている。カメラが兵器で無いこともたしかめ、私が爆薬を持っていないことを確かめても入れてくれない。ようやく許可が下りたのは2時間後であった。もはやインタビューも出来ない。必要なインサートカットのみを撮影して国連ビルを後にし、コロンビア大学へ向かった。コロンビア大学の取材は概ね成功であった。19時にホテルに戻り、宿泊している私の部屋で、再び国連本部職員のインタビュー収録を行った。無事に収録は終えたが、私が取っておいたブロードウェイのミュージカルのチケットは唯の紙クズとなってしまった。でも国連ビルって、何故かデジタルサイネージにも見えてしまう。私だけか?気のせいか?

January 25th, 2021 Toyosaki’s blog


ブログ#154 花の浮き島・礼文島①

 先日の、東京・目黒区「魚桂」との出会いで、北海道の礼文島ロケを思い出したので書き残しておこう。20年近く前の事なので正確さに欠けるかもしれない。礼文島は、稚内市の西方60キロメートルの日本海に位置する最北の離島で、「花の浮き島」と呼ばれるように約300種類の高山植物が咲く。20年前のロケは高山植物ではなく、礼文島にある小さな小学校の教諭を取材することが目的であった。

 礼文島は前乗り1箔だけの強行ロケだった。行きは飛行機で羽田から稚内空港へ、稚内からフェリーで礼文島への行程だった。午後2時ごろ、稚内からフェリーに乗る予定だったので、稚内フェリーターミナルで昼食を取ることにした。ターミナルの食堂のメニューがすごい。流石に稚内で、エゾバフンウニ、甘海老、アワビ、タラバガニ、毛ガニ、ホッケ、タコ、イクラ、タラなどの北海の幸が並んでいた。同行してくれたカメラマンは、迷わずに「エゾバフンウニ&イクラ丼」を注文した。私は、稚内産ではなく礼文産の「エゾバフンウニ」が食べたかったので、ターミナルでは「天ぷらそば」を食べてしまった。

 フェリーで約2時間、礼文島の香深港に着き、タクシーで宿泊先の民宿へ向かう。出迎えてくれた民宿のおばさんが「ごめんね。美味し食事用意できなくて」と言うので、「いやいやお構いなく。外に食べに行くのが好きなんです。近くに繁華街とかありますか?」と聞くと「礼文銀座」を教えてくれたのだが「何か美味しいものがあればいいんだけどね」と気に掛かる一言。明日のロケの機材チャック等を済ませ、カメラマンと一緒に10分歩いて「礼文銀座」へ。確か6軒位しか店のない商店街。しかも空いていたのは「食堂」と書かれた定食屋が1軒。しかし礼文島の定食屋に「海の幸」が無いわけない。暖簾をくぐって席に付き、「ウニとかイクラとかありますか?」と聞くと、「ごめんね、3日間禁漁日で、海のものは何もないのよ」と帰ってきた。「じゃあ何が出来ますか?」と聞き返すと、カツ丼だけだと言う!礼文島まで来てカツ丼食って帰れるか!と思いつつも、明日の仕事の為に「カツ丼」を注文した。笑いを堪えながらカツ丼を食べるカメラマンの顔が忘れられない。

 私は、たいして才能のない人間であるが、地方ロケに行った時に「食」を外したことは無い。どんな辺鄙な場所でも最高の「食」に辿り着いてきた自負がある。カツ丼を食べ終わったカメラマンに「もう一軒行くぞ」と言い、定食屋のおばさんに、近くに飲み屋がないか聞くと、食べるものは無いと思うが「スナック・レブン(仮称)」があると教えてくれた。「諦めの悪いディレクターだな」と思いながら渋々歩くカメラマンを連れて「スナック・レブン」へ。地元のご高齢者3名が気持ちよくカラオケを熱唱していた。カウンターに座って「何か食べるものありますか?」と聞くと、「ポテチかプチチョコ。あ、柿の種もあるよ」とパーフェクトな回答。しかしここからが私の真骨頂なのである。

 私は「スナック・レブン」のマスターに、稚内フェリーターミナルでの昼食、民宿のおかみさんの話、定食屋のカツ丼、明日の午後3時には礼文島を離れ横浜に直帰ることなどを話したのである。人には情というものがあるはずである。私の話を聞き終わったマスターは「そうですか、礼文島にまで来てカツ丼だけ食って帰りますか?ちょっと待っていて下さい」と、どこかに電話をし始めた。「あ、俺だけど、お前の所に海の物、何か余ってない?」「うんうん、悪いけどそれ持ってきてよ」との電話のやり取り。近くに住んでいる妹さんの家の冷蔵にある「海の幸」を全部持ってこさせたのだ。待つこと10分。「スナック・レブン」のカウンターには、エゾバフンウニ、甘海老、タコ、イクラが並んだのである。ああ人間って温かいな。感謝、感謝で「礼文の幸」を頂いたのである。お会計の金額は記憶にはない。ロケの珍道中は続くが、長くなってしまったので後半の旅の恥は又の機会に書くことにする。

July 10th, 2021 Toyosaki’s blog


ブログ#155 花の浮き島・礼文島②

 昨日「礼文の海の幸」にありつけた私は、上機嫌でロケ地の小学校に向かった。当時の礼文島には3校か4校の小学校があったはずである。私が伺った小学校には、1年から6年生まででの児童が計4名、先生が計6名だったと記憶している。数年後にはこの小学校も閉校されると聞いた。たとえ一人でも生徒がいれば学校は存続されるのが日本の義務教育なのかはわからないが、この礼文島という小さな島で「教育」という人間の権利を絶やさない戦いがこれまでも続き、これからも続いていくことを強く感じたロケであった。取材した教諭は別に礼文島の出身ではなかったが、自ら進んで離島の小学校への配属を望んだらしい。私が教師だったら、同じような発想を持ったかも知れない。

 無事にロケも終わり、トンボ帰りで横浜に戻らなくてはならない。本当ならもう1泊ぐらいはして、高山植物の撮影や、もっと沢山の海の幸にもありつけたかったが、次の現場が待っている。帰りは行きと違い、利尻島までフェリーで渡り、利尻空港から新千歳空港経由で羽田の戻る計画であった。利尻空港まで行き、フライトを待っていたのだが、小さな飛行機であるため少しの風でも欠航となるらしい。その日はそんなに風が無かったので問題なく飛ぶと思っていのだが、結果は欠航となってしまった。慌てて利尻空港から鴛泊港へ移動し、稚内行きのフェリーに飛び乗った。フェリーの中から携帯電話で新千歳行きの飛行機の予約を試みたが満席で取れない。仕方なく稚内から新千歳空港まで電車で5時間30分かけ移動。千歳空港の最終の羽田行きに飛び乗り、深夜に羽田に到着したのであった。

 1泊2日の礼文島珍道中であったが、やはり旅は楽しいものである。こうしてブログを書いていなければ、遠い記憶になっていたものが、誰かの目に触れることもあるだろう。20年前の事だが、礼文島ロケの参考にも少しはなるかもしれない。当然20年前はデジタルサイネージなどあるはずもないが、今の礼文島にもデジタルサイネージは1台もないかもしれない。ワンカットも撮れなかった高山植物や、もっと沢山の海の幸、礼文島でお世話になった人への礼など、もう一度ゆっくりと訪れてみたい。デジタルサイネージなど必要のない花の浮き島が礼文島なのである。

July 11st, 2021 Toyosaki’s blog


ブログ#158 釈尊がブッダとなった地・ブッダガヤ

 私が仕事でインドのブッダガヤを訪れたのは、1992年の2月であった。ブッダガヤは釈尊が誕生した地として有名で、インド北東部ビハール州、ガヤー県にある。ガンジス川の支流ニーラージャナー川に臨むみ、釈迦が菩提樹の下で成道を開いたとされる地として知られている。仏教八大聖地の1つで、仏教では最高の聖地とされている。

 ブッダガヤへは、インドの首都であるニュー・デリーでの仕事を終えてからの移動であった。デリーからブッダガヤの最寄り駅であるガヤー駅までは、距離は1000キロ強。特急列車で17時間30分かかる。ニュー・デリー駅で特急列車を待つこと数時間。どれくらい遅れているのか駅員に尋ねても、「その内来るさ」との返答しかない。結局予定日には列車は来なく、スタッフみんなで、駅のホームで一夜を過ごした。朝間が覚めると、隣で寝ていたスタッフが「真っ黒」になっている。どうなっているのか分からずに、パチンと手を叩くと、何千匹の蝿が飛び立っていった。数分間は鳥肌が収まらなかった。今では何時間待ったのかは記憶にない。

 やっとスーパーエクスプレスが到着し、搭乗して出発を待つも、一向に発車する気配がない。列車の外から売りに来る「チャイ(インドの甘いミルクティー)」を何杯も飲んで、いよいよ出発。このスーパーエクスプレス、しばらくは、人が歩くよりも遅いスピードで走っている。炎熱列車の中は40度以上の暑さである。予定より時間がかかってガヤー駅に到着した。半分ぐらいの窓ガラスが割れているバスに揺られること1時間。バスを降りて44度の灼熱の砂漠を歩いて移動すると、ようやくブッダガヤが見えてきた。おお!ここがブッダガヤかと敷地に入った途端、ブッダガヤで暮らすインド人が大きな声を掛けてきた。「社長!お土産、安いよ!」振り返ると、大きな店の看板に「社長!安いよ!」と書かれている。世界から見る日本人のイメージはこんなものなのかもしれない。

 しかし、流石に聖地と言われる場所で、厳粛な空気が流れている。今からおよそ2500年前、釈迦が悟りを得てブッダ(サンスクリット語で目覚めた人の意味)となった場所には、高さ約52mの大塔を有するマハーボーディー寺院が建っていて、大塔の脇で枝を広げる巨大な菩提樹の下には、釈迦が悟りを開いた金剛宝座がある。2500年以上生きる菩提樹の葉は生き生きとした緑に輝いていた。このマハーボーディー寺院(大菩提寺)は2002年に世界文化遺産となっている。2500年後には「社長!お土産、安いよ!」と叫んだお店の看板もデジタルサイネージになっているかもしれない。

July 14th, 2021 Toyosaki’s blog