デジタルサイネージと旅の恥
国内外を問わずロケは楽しい「旅」である
撮影の醍醐味のひとつはロケである。国内であれ、海外であれロケは楽しい。
特に海外ロケなどは、それだけでワクワクとドキドキが止まらない。
なぜなら予想も付かないハプニングが多く起こるからだろう。
そのハプニングを乗り越え、無事に撮影を成し遂げた後の「美酒」がたまらない。
デジタルサイネージにあまり関係ない話しも多くなるであろうが、
ロケで起きたハプニングとご当地のオススメ料理なども紹介します。
No.003 デジタルサイネージと屋久島・縄文杉
屋久島といえば1993年に世界遺産(自然遺産)に登録され年間等して観光客の絶えない日本を代表するパワースポットである。特に樹齢7200年(諸説有り)を超える縄文杉は幹の周囲が16.4mもあり波打つヒダとコブに覆われている屋久島の象徴的な杉である。私も2度撮影に訪れているが、その存在感に圧倒されたものだ。初めて訪れた時は通常のビデオ収録であったので当然16/9の横画面撮影である。美しい森や透き通った川、屋久猿や屋久鹿などの動物など被写体に困ることはなく順調に縄文杉を目指した。しかし縄文杉を目の当たりにして困ったのが横画面ではその迫力を捉え切れないのだ。もちろんそんな事は百も承知で望んだのだが、ティルトアップしても画が決まらず、樹齢7200歳の仙人の前では私は無力な44歳の赤子であった。
10年前に2度目のプライベート撮影に臨む。今度は全てが縦構図での撮影に挑戦した。これがデジタルサイネージのコンテンツ制作の依頼だったら面白かったが、当時はまだ縦型ディスプレイのデジタルサイネージは海外ブランドショップのウインドで流されていたファッションショーぐらいであった。動画制作に携わっていてスチールカメラマンに嫉妬していたのは、この「縦構図」で動画作品が作れないことであった。屋久島で収録した縦ムービーを編集して完成させた時には、今までにない満足感と色々な発想が溢れてきた。いずれは普及する縦型ディスプレイのデジタルサイネージ時代に思いを馳せたのが屋久島・縄文杉であった。
October the 25th, 2019 Toyosaki’s blog
No.056 ヒロシマ原爆投下から75年
今日8月6日は、広島に原爆が投下されて75年になる。私も何度か原爆ドームを訪れたり、原水爆禁止をテーマにした映像も制作している。毎年行っている平和式典も、コロナ感染拡大を避け、自粛した形で行われた。広島の原爆による死者は14万人である。その3日後の8月9日には長崎にも投下され、死者は7万4千人であった。立った3日、たった2つの爆弾で、その年の12月までに21万4千人の尊い命が奪われた。その後、現在まで、原爆の後遺症で亡われた方は多い。原始原爆投下の理由、背景と経緯は様々語られているが、太平洋戦争という諸国の巨大エネルギーのぶつかり合いの中で起きた人類最大の悲劇に違いあるまい。反核運動は世界中に広まりつつも、未だ核軍縮は難しい国際問題として、各国相手の出方を威嚇しているようだ。政治の世界だけに任せておけないこの問題は、多くの文化・芸術策を生み出している。ピカソの絵画「ゲルニカ」しかり、日本漫画「はだしのゲン」など。そして被爆を題材にした小説も多くあるが、有名なのは1965年に出版された井伏鱒二の小説「黒い雨」であろう。私も読んだし、田中好子が主演し映画化された、映画「黒い雨」も素晴らしい作品だ。「黒い雨」とは原子爆弾投下後に降る、放射能入りの「黒い雨」の事である。先週も原爆被害者達から、当時に降った「黒い雨」の範囲を巡って裁判が行われた。裁判の結果は、当時の範囲を覆し、被害者団体の勝訴となった。やっと親族が「原爆被害者」と国が認めたのである。
75年の気の遠くなるような戦いは想像にも及ばない。今後も世界中で「非核運動」は高まっていくに違いない。そして3日前、驚くべきニュースが飛び込んできた。被爆から75年となることし今年、NHKが日米の若い世代を対象にアンケート調査を行った結果、アメリカ人のおよそ7割が「核兵器は必要ない」と答えた。今までのアメリカの若者は「原爆投下によって戦争を終えることができた」という認識が多かった。それが、この世界中のコロナウイルスの脅威や、地球温暖化、貧困の問題など、「人間どうしで殺し合ってどうする」との、当然も意識の変化であろう。デジタルサイネージを含め、映像文化の分野でも、「黒い雨」などの芸術作品には及ばずとも、意識をしていくとが大切だと感じている。「広島」と「長崎」は日本にとっても世界にとっても大切な場所である。世界で唯一の被爆国である日本は、これから先も「核廃絶」に対して、大きな「責任」と「使命」と「義務」と「権利」があると、ある署名は平和学者が語っていたことが忘れられない。これからも少しはタイムリーなコラムも書いていこう。
August 6th, 2020 Toyosaki’s blog
No.066 9.11「追悼の光」
2001年9月11日、米ニューヨークの世界貿易センタービルのツインタワーに、ハイジャックされた2機の旅客機が相次いで衝突。ビルは炎上し、一瞬で崩れ落ちた。この国際テロ組織「アルカイダ」が起こした「アメリカ同時多発テロ」は、戦争の世紀であった20世紀から、平和の世紀である21世紀に入ったばかりに起きた、国間の戦いではなく、「テロリストとの戦い」の始まりとなった。そして、リアルタイムで全世界に配信されたショッキングな映像は世界中を恐怖に陥れた。私も仕事先のホテルでリアルタイムに見ていた。最初はスピルバーグの新作映画の、ゲリラ・プロモーションではないかと、本当に疑ってかかっていた。こんな悲惨な映像がこの世にリアルに存在するはずが無い。そして、それが現実だと叩きつけられたのが、ビルが崩れ落ちる映像であった。あのツインタワーが、あんなにも脆く崩れ降りてしまうのか。映画であったら、あんな崩し方は絶対にしないと思ったからだ。そしてリアルな映像が持つ力にも圧倒された記憶がある。
私も取材で世界貿易センタービルを訪れたこともあるし、ニューヨックの国連本部ビルも取材した。ニューヨークは思い出のある街であるし、ニューヨークで暮らす友人も数名いたので、彼らの安否が心配であった。数時間後に安否が確認できた友人もいたが、何日も確認ができない人もいた。ワシントンの国防総省(通称ペンタゴン)も標的になり、民間機4機がハイジャックされたこのテロで日本人24人を含む2977人が犠牲となった。そして衝撃だったのは、この日本人24人のひとりが、私の知人の兄であったのだ。二番目に衝突したユナイテッド航空175便に搭乗していた。日本へ向かう途中だったという。二人のお子さんの存在も知っていたので心が傷んだことが忘れられない。9.11が来るたびに二人のお子さんの成長を願わずにはいられなかった。今では父親を誇りとして見事に社会で活躍されていると聞く。
4機の内、ペンシルベニア州の平原に墜落したユナイテッド航空93便は、乗客と乗員たちがハイジャック犯に抵抗したため、標的であったとされるホワイトハウスには到達しなかった。この便の乗客と乗員の勇気の行動がなかったら、アメリカの報復は核戦争にまで発展していたかも知れないと私は思ってしまう。9.11を題材にした映画は多く制作されている。このユナイテッド航空93便の離陸から墜落までを忠実に再現したノンフィクション映画「ユナイテッド93」もあるので、興味のある方はご覧頂きたい。現在、世界貿易産業ビルの跡地は「グランド・ゼロ」(爆心地)と呼ばれ、事件を伝える「9.11メモリアル博物館」や犠牲者を追悼する記念碑が設置されている。毎年9月11日には追悼式典が行われ夜から翌朝まで2棟のビルに見立てた青い光のツインタワー「追悼の光」が、ニューヨークの夜空を照らし出している。2001年9月11日のテロとの戦い、2011年3月11日の自然災害と原子力との戦い。来年の2021年はウイルスを克服し世界中からアスリートが日本に集まったスポーツの戦いの年であってほしいと心から祈っている。
September 11th, 2020 Toyosaki’s blog
No.082 詩聖・タゴールにあこがれて
最近、特に昨年は海外にも行けていないので昔のお話です。インドのニューデリーへ、イベントのお仕事で2年続けて訪れた。その時は映像ではなく音響スタッフとして同行させてもらった。一応ミュージシャンだったという肩書があるので、基本的なことは理解していたつもりだ。最初に訪れたのは1991年の湾岸戦争が勃発して一週間後であった。ニューデリー空港に着くなり、厳重な警備隊に囲まれ荷物チェック。仕事で来たので、当然、電池やストップウォッチ、マグライトなど、最低限のツールは持っていったのだが、電池とストップウォッチで「爆弾」を作る疑いをかけられ、なかなか検閲を通してくれない。やっと通してもらいホテルに向かうと、道中で3回も検問があり、ライフルを向けた警官が荷物チェックをする。大先輩の「知恵」で切り抜けていくのだが、その「知恵」は、ここでは証さないでおこう。
目的のイベントが無事に終了した後に、ニューデリー郊外を撮影してまわった。もちろんスタッフはインド人だが、ちゃんとしたプロダクションだったので、カメラは業務用のSONYのβカムであった。この撮影が、私がプロとしての初めての撮影となったのである。この撮影が無かったら、おそらく「デジタルサイネージのピクトパスカル」も存在していなかったであろう。ガンジス川を撮影した時には、やはり感慨深いものがあった。川上から、沐浴している者、洗濯をしている者、体を洗っている者、排泄をしている者、水を飲んでいる者、そしてその脇を死体がゆっくりと流れていく。そんな壮大な大地と文化から生まれたのが、詩聖・タゴールだ。
インドに行ったことをきっかけにタゴールを知り、勉強をした時期があった。「ラビンドラナート・タゴールは、インドの詩人 、思想家、作曲家。詩聖として非常な尊敬を集めている。1913年には「ギタンジャリ」によってノーベル文学賞を受賞した。これはアジア人に与えられた初のノーベル賞でもあった。 インド国歌の作詞・作曲、タゴール国際大学の設立者でもあった。 ウィキペディアより」。タゴールの名言をいつくかご紹介したい。「真の友情は蛍光のようなもの。すべてが闇に包まれるとき、より一層と輝く」「花はその花弁のすべてを失って果実を見いだす」「人間は、空間と時間との領域の中に住むほかに、もう1つ別の住居を持つ。自分の内面の王国の中に」「海を見ているだけでは、海は渡れない」。「人生から太陽が消えたからといって泣いてしまえば、その涙で星が見えなくなってしまう」掲げればきりがない名言ばかりであり、コロナ渦では更に光彩を放つ「言葉」だと痛感している。「言葉」の持つ力は大きい。デジタルサイネージも広告も「言葉」がなくては成立しない。こんな時期だからこそ、もう一度、タゴールの「力のある言葉」に触れる機会を作ろうと思っている。
January 5th, 2021 Toyosaki’s blog
No.095 NY国連本部の取材
ニューヨークにある国連本部ビル(United Nations)に取材に行った時の出来事である。国際連合」は、国際連合憲章の下で1945年に設立された国際機関で、第二次世界大戦を防げなかった国際連盟の様々な反省を踏まえ、1945年10月24日に51ヵ国の加盟国で設立された。2020年4月現在の加盟国は193ヵ国であり、国際組織の中では最も広範で一般的な権限と、普遍性を有する組織である。本来この国連の担う役割は重要で、特に国際的な紛争問題や環境問題は、国連がイニシアティブを取って推進すべく組織である。しかし近年は、国連加盟国の中でも国連決議に従わない国の存在で、国連の権威が下がってきていることはとても残念だ。国連ビルは通称マッチ箱と呼ばれる奥行きのない四角い建物である。ある意味デザイン性のない建築に見えるが、実際に行ってみるとシンプルだが実に存在感のあるビルであった。
取材は、国連に務める日本人本部職員の活躍を収める内容であった。ニューヨークでは国連の他にもコロンビア大学の取材が同時にあったので、国連に使える時間は3時間ほどであった。予算も時間もなかったので、事前にメールで収録の段取りをとって向かった。前日の夜のニューヨークに着き、ホテルで日本人本部職員と取材の確認をし、翌日国連ビルの前で合流。流石に国連の本部職員だけあって仕事ができる。やることにまったく無駄がない。取材の申請もしてあったし、問題なく3時間で収録できるであろうと思っていた。しかし、そうは問屋が下ろさないのが海外取材である。国連ビルの守衛が私をビルに入れてくれないのである。本部職員が同行して、しかも申請までしてあるのに駄目だという。当時は国際的なテロ事件が多く勃発していて、国連ビルもテロのターゲットになっていたことはわかっている。カメラが兵器で無いこともたしかめ、私が爆薬を持っていないことを確かめても入れてくれない。ようやく許可が下りたのは2時間後であった。もはやインタビューも出来ない。必要なインサートカットのみを撮影して国連ビルを後にし、コロンビア大学へ向かった。コロンビア大学の取材は概ね成功であった。19時にホテルに戻り、宿泊している私の部屋で、再び国連本部職員のインタビュー収録を行った。無事に収録は終えたが、私が取っておいたブロードウェイのミュージカルのチケットは唯の紙クズとなってしまった。でも国連ビルって、何故かデジタルサイネージにも見えてしまう。私だけか?気のせいか?
January 25th, 2021 Toyosaki’s blog
No.110 東日本大震災から10年
未曾有の震災であった「東日本大震災」から今日で10年の時を経た。3.11になると9年前に撮影した「東日本大震災 50日目の記録」を振り返る。しかし、これが「区切り」であるとか「節目」であってはならないと思う。今も尚、復興は続いているし、これからも続いていく。毎年通っていた復興イベントである「青い鯉のぼりプロジェクト」も昨年はコロナで中止になり、2年近く豊北へは訪れていない。それでも東北の友の活躍は毎日届いてくる。この10年間で、東北の人々には本当に多くの勇気と力をもらった。東北の人は、あの震災で本当に強くなったのであろう。これからも寄り添って、応援をしていきたい。
しかし、福島原発の問題や実質的な復興はまだまだ時間がかかりそうだ。今はコロナの収束が最優先だ。そして経済を回すことよりも、救済処置が届いていない人への政策を打ち出すべきだと思う。厄介とも思えてきたオリンピックもどうなることか。本当ならこの日を、東北の地で迎えたかったが、緊急事態宣言が続いている横浜から東北へは向かうべきではない。「東日本大震災」から10年目のこの日を、複雑な想いで迎えることになった。
そして、これから起こるであろう「首都直下型地震」や、2030年までに人類が変革しなければならない課題である「地球温暖化」「飢餓のパンデミック」「プラスチック汚染の脅威」など地球と人類の未来を決定する課題が山積している。私もひとつひとつの課題に向き合わなくてはと強く思っている。東日本大震災から20年にあたる2031年は、まさに未来への分岐点となるのであろう。また、2031年に、デジタルサイネージの世界がどのようになっているのか?それを決めるこの10年も大切な時期である。
March 11th, 2021 Toyosaki’s blog
No.119 沖縄・ひめゆり平和祈念資料館
昨日4月13日のニュースで沖縄のひめゆりの塔にある「ひめゆり平和祈念資料館」のリニューアルが放映されていた。昔訪れた事があったので興味深く見ることができた。ひめゆりの塔は、沖縄戦末期に沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立つひめゆり学徒隊の慰霊碑である。ひめゆり学徒隊とは、1944年12月に沖縄県で日本軍が中心となって行った看護訓練によって構成された女子学徒隊のうち、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師・生徒で構成された学徒隊の名前である。
「ひめゆり平和祈念資料館」は、第三外科壕を底から見上げた形で原寸大のジオラマ、南風原陸軍病院壕の一部を再現した原寸大模型があり、そこで以前は語り部の証言を直接聴くことができた。しかし語り部の高齢化により2004年4月のリニューアル以後は証言映像の上映に切り替えられていた。第四展示室は戦没した女生徒や教員の写真が壁中に貼られており、生前の人柄や死亡時の状況が文章で解説されていた。
今回のリニューアルで大きく変わったのが、展示写真の扱いである。記念館を訪れた子どもたちの感想の中に「ピンとこない」「共感できない」との感想に、どうすれば「戦争の悲惨」が伝わるのかを検討した結果であった。昔の写真は「硬い表情」の集合写真が多く使われていたが、今回は無邪気に笑う少女たちの笑顔をラインナップさせている。館内の入り口には、学校へ投稿する生き生きとした学徒たちの絵画が飾られた。自分たちと何も変わらない学生多くが亡くなったことへの共感を生むであろう。
伝える側と、伝えられる側のギャップを埋め、「共感」をもたせることが、これからの時代は大切なことだと感じた。一方的な情報の発信では時代に付いてはいけない。こういった資料館も、今後は多くのデジタルサイネージが導入され、より良い情報やビジュアル、映像などのコンテンツが必要となってくるであろう。依頼が来たら応えられるように精進しておきたい。
「ひめゆりの塔」をテーマとした映画や作品はいくつかあるが、いずれも一部脚色されており、事実を正確に伝えていないものも多い。その中でも2007年に公開されたドキュメンタリー映画『ひめゆり』では、生存者の証言映像を基に構成され、また生存者による監修がなされている事から、他の映画作品とは趣を異にしている。改めて見ておこうと思わせた良いニュースであった。沖縄はよく仕事で行っているが、やはり行くたびに戦争と平和を考えさせられる貴重な場所である。
April 13th, 2021 Toyosaki’s blog
No.154 花の浮き島・礼文島①
先日の、東京・目黒区「魚桂」との出会いで、北海道の礼文島ロケを思い出したので書き残しておこう。20年近く前の事なので正確さに欠けるかもしれない。礼文島は、稚内市の西方60キロメートルの日本海に位置する最北の離島で、「花の浮き島」と呼ばれるように約300種類の高山植物が咲く。20年前のロケは高山植物ではなく、礼文島にある小さな小学校の教諭を取材することが目的であった。
礼文島は前乗り1箔だけの強行ロケだった。行きは飛行機で羽田から稚内空港へ、稚内からフェリーで礼文島への行程だった。午後2時ごろ、稚内からフェリーに乗る予定だったので、稚内フェリーターミナルで昼食を取ることにした。ターミナルの食堂のメニューがすごい。流石に稚内で、エゾバフンウニ、甘海老、アワビ、タラバガニ、毛ガニ、ホッケ、タコ、イクラ、タラなどの北海の幸が並んでいた。同行してくれたカメラマンは、迷わずに「エゾバフンウニ&イクラ丼」を注文した。私は、稚内産ではなく礼文産の「エゾバフンウニ」が食べたかったので、ターミナルでは「天ぷらそば」を食べてしまった。
フェリーで約2時間、礼文島の香深港に着き、タクシーで宿泊先の民宿へ向かう。出迎えてくれた民宿のおばさんが「ごめんね。美味し食事用意できなくて」と言うので、「いやいやお構いなく。外に食べに行くのが好きなんです。近くに繁華街とかありますか?」と聞くと「礼文銀座」を教えてくれたのだが「何か美味しいものがあればいいんだけどね」と気に掛かる一言。明日のロケの機材チャック等を済ませ、カメラマンと一緒に10分歩いて「礼文銀座」へ。確か6軒位しか店のない商店街。しかも空いていたのは「食堂」と書かれた定食屋が1軒。しかし礼文島の定食屋に「海の幸」が無いわけない。暖簾をくぐって席に付き、「ウニとかイクラとかありますか?」と聞くと、「ごめんね、3日間禁漁日で、海のものは何もないのよ」と帰ってきた。「じゃあ何が出来ますか?」と聞き返すと、カツ丼だけだと言う!礼文島まで来てカツ丼食って帰れるか!と思いつつも、明日の仕事の為に「カツ丼」を注文した。笑いを堪えながらカツ丼を食べるカメラマンの顔が忘れられない。
私は、たいして才能のない人間であるが、地方ロケに行った時に「食」を外したことは無い。どんな辺鄙な場所でも最高の「食」に辿り着いてきた自負がある。カツ丼を食べ終わったカメラマンに「もう一軒行くぞ」と言い、定食屋のおばさんに、近くに飲み屋がないか聞くと、食べるものは無いと思うが「スナック・レブン(仮称)」があると教えてくれた。「諦めの悪いディレクターだな」と思いながら渋々歩くカメラマンを連れて「スナック・レブン」へ。地元のご高齢者3名が気持ちよくカラオケを熱唱していた。カウンターに座って「何か食べるものありますか?」と聞くと、「ポテチかプチチョコ。あ、柿の種もあるよ」とパーフェクトな回答。しかしここからが私の真骨頂なのである。
私は「スナック・レブン」のマスターに、稚内フェリーターミナルでの昼食、民宿のおかみさんの話、定食屋のカツ丼、明日の午後3時には礼文島を離れ横浜に直帰ることなどを話したのである。人には情というものがあるはずである。私の話を聞き終わったマスターは「そうですか、礼文島にまで来てカツ丼だけ食って帰りますか?ちょっと待っていて下さい」と、どこかに電話をし始めた。「あ、俺だけど、お前の所に海の物、何か余ってない?」「うんうん、悪いけどそれ持ってきてよ」との電話のやり取り。近くに住んでいる妹さんの家の冷蔵にある「海の幸」を全部持ってこさせたのだ。待つこと10分。「スナック・レブン」のカウンターには、エゾバフンウニ、甘海老、タコ、イクラが並んだのである。ああ人間って温かいな。感謝、感謝で「礼文の幸」を頂いたのである。お会計の金額は記憶にはない。ロケの珍道中は続くが、長くなってしまったので後半の旅の恥は又の機会に書くことにする。
July 10th, 2021 Toyosaki’s blog
No.155 花の浮き島・礼文島②
昨日「礼文の海の幸」にありつけた私は、上機嫌でロケ地の小学校に向かった。当時の礼文島には3校か4校の小学校があったはずである。私が伺った小学校には、1年から6年生まででの児童が計4名、先生が計6名だったと記憶している。数年後にはこの小学校も閉校されると聞いた。たとえ一人でも生徒がいれば学校は存続されるのが日本の義務教育なのかはわからないが、この礼文島という小さな島で「教育」という人間の権利を絶やさない戦いがこれまでも続き、これからも続いていくことを強く感じたロケであった。取材した教諭は別に礼文島の出身ではなかったが、自ら進んで離島の小学校への配属を望んだらしい。私が教師だったら、同じような発想を持ったかも知れない。
無事にロケも終わり、トンボ帰りで横浜に戻らなくてはならない。本当ならもう1泊ぐらいはして、高山植物の撮影や、もっと沢山の海の幸にもありつけたかったが、次の現場が待っている。帰りは行きと違い、利尻島までフェリーで渡り、利尻空港から新千歳空港経由で羽田の戻る計画であった。利尻空港まで行き、フライトを待っていたのだが、小さな飛行機であるため少しの風でも欠航となるらしい。その日はそんなに風が無かったので問題なく飛ぶと思っていのだが、結果は欠航となってしまった。慌てて利尻空港から鴛泊港へ移動し、稚内行きのフェリーに飛び乗った。フェリーの中から携帯電話で新千歳行きの飛行機の予約を試みたが満席で取れない。仕方なく稚内から新千歳空港まで電車で5時間30分かけ移動。千歳空港の最終の羽田行きに飛び乗り、深夜に羽田に到着したのであった。
1泊2日の礼文島珍道中であったが、やはり旅は楽しいものである。こうしてブログを書いていなければ、遠い記憶になっていたものが、誰かの目に触れることもあるだろう。20年前の事だが、礼文島ロケの参考にも少しはなるかもしれない。当然20年前はデジタルサイネージなどあるはずもないが、今の礼文島にもデジタルサイネージは1台もないかもしれない。ワンカットも撮れなかった高山植物や、もっと沢山の海の幸、礼文島でお世話になった人への礼など、もう一度ゆっくりと訪れてみたい。デジタルサイネージなど必要のない花の浮き島が礼文島なのである。
July 11st, 2021 Toyosaki’s blog
No.158 釈尊がブッダとなった地・ブッダガヤ
私が仕事でインドのブッダガヤを訪れたのは、1992年の2月であった。ブッダガヤは釈尊が誕生した地として有名で、インド北東部ビハール州、ガヤー県にある。ガンジス川の支流ニーラージャナー川に臨むみ、釈迦が菩提樹の下で成道を開いたとされる地として知られている。仏教八大聖地の1つで、仏教では最高の聖地とされている。
ブッダガヤへは、インドの首都であるニュー・デリーでの仕事を終えてからの移動であった。デリーからブッダガヤの最寄り駅であるガヤー駅までは、距離は1000キロ強。特急列車で17時間30分かかる。ニュー・デリー駅で特急列車を待つこと数時間。どれくらい遅れているのか駅員に尋ねても、「その内来るさ」との返答しかない。結局予定日には列車は来なく、スタッフみんなで、駅のホームで一夜を過ごした。朝間が覚めると、隣で寝ていたスタッフが「真っ黒」になっている。どうなっているのか分からずに、パチンと手を叩くと、何千匹の蝿が飛び立っていった。数分間は鳥肌が収まらなかった。今では何時間待ったのかは記憶にない。
やっとスーパーエクスプレスが到着し、搭乗して出発を待つも、一向に発車する気配がない。列車の外から売りに来る「チャイ(インドの甘いミルクティー)」を何杯も飲んで、いよいよ出発。このスーパーエクスプレス、しばらくは、人が歩くよりも遅いスピードで走っている。炎熱列車の中は40度以上の暑さである。予定より時間がかかってガヤー駅に到着した。半分ぐらいの窓ガラスが割れているバスに揺られること1時間。バスを降りて44度の灼熱の砂漠を歩いて移動すると、ようやくブッダガヤが見えてきた。おお!ここがブッダガヤかと敷地に入った途端、ブッダガヤで暮らすインド人が大きな声を掛けてきた。「社長!お土産、安いよ!」振り返ると、大きな店の看板に「社長!安いよ!」と書かれている。世界から見る日本人のイメージはこんなものなのかもしれない。
しかし、流石に聖地と言われる場所で、厳粛な空気が流れている。今からおよそ2500年前、釈迦が悟りを得てブッダ(サンスクリット語で目覚めた人の意味)となった場所には、高さ約52mの大塔を有するマハーボーディー寺院が建っていて、大塔の脇で枝を広げる巨大な菩提樹の下には、釈迦が悟りを開いた金剛宝座がある。2500年以上生きる菩提樹の葉は生き生きとした緑に輝いていた。このマハーボーディー寺院(大菩提寺)は2002年に世界文化遺産となっている。2500年後には「社長!お土産、安いよ!」と叫んだお店の看板もデジタルサイネージになっているかもしれない。
July 14th, 2021 Toyosaki’s blog
No.268 3.11「青い鯉のぼりプロジェクト2022」
今年も3.11がやってくる。コロナ渦で3回目の3.11だ。この3年はコロナや東京2020,そして今は、ロシアのウクライナへの侵略戦争と、大切な「3.11」の影が薄くなりつつある。復興と風化は同時に進むと考えられてしまいがちであるが、決してそうなってはならないと思う。私の携わってきた東北の復興イベントである「青い鯉のぼりプロジェクト」も、この2年間は現地開催ができなかった。
ようやく今年は、万全の感染対策をして3月11日よりスタートを切る。被災した東松島・大曲浜で、全国から寄せられた様々な青い鯉のぼりの掲揚、14時46分に黙祷。そして、記念演奏として和太鼓の復興合同曲「陸奥(みちのく)」が演奏される予定だ。残念ながら私は今年も参加できないが、5月5日のこどもの日に行われる「青い鯉のぼりの下に腰をおろす会」が無事に開催されることを祈っている。私が贈った青い鯉のぼりも、今年も東松島の海風を受けて気持ちよく泳ぐことだろう。
March 9th, 2022 Toyosaki’s blog
No.289 「沖縄本土復帰50年」
1972年5月15日の沖縄の本土復帰から、明日で50年が経つ。戦後、日本本土が主権を回復したあとも、沖縄は終戦から27年間もの長い間アメリカの統治下に置かれた。半世紀をへて、「沖縄に行くのにパスポートが必要だったの?」「沖縄の通貨は$だったの?」など、復帰を知らない若い世代が増えた。NHKの朝ドラ「チムドンドン」をご覧になっている人は時代背景が少しはわかるかもしれない。沖縄の本土復帰50周年特集の番組なども多くやっているので、沖縄の戦争の歴史を知る良い機会だと思う。
沖縄といえば、5月11日時点で、コロナウイルスの直近1週間の人口10万人当たり新規陽性者数は787.61人で、47日連続で全国ワースト1であった。本来であれば、記念の式典や各家庭でも盛大にエイサーを踊り、お祝いをしたことであろう。また、朝ドラの影響で、沖縄のやんばる地方を訪れたいと思っている人も多いことだろう。2021年7月26日には、やんばる地方を始め、「奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島」が、国連教育科学文化機関(ユネスコ、IUCN)の諮問機関である国際自然保護連合(IUCN)から世界遺産に登録された。特にやんばる地方は亜熱帯照葉樹林の森で世界的にも数少なく、やんばるの森には多くの希少な動植物が生息・生育しており「奇跡の森」と呼ばれている。私も沖縄には何度も行っているが、やんばるを訪れたことはない。世界に誇れるやんばるの森も、いつかは、デジタルサイネージの環境コンテンツとして撮影したいものだ。「チムドンドンするサ〜!」。
May 14th, 2022 Toyosaki’s blog