プロフェッショナルなスタッフたち

デジタルサイネージの制作を支えてくれる
頼もしいプロフェッショナルなスタッフたち

良きスタッフに恵まれる事は最大の歓びであり誇りである。
これは決して制作費があるから優秀なスタッフと繋がるわけではないと思っている。
もちろん優秀なスタッフはギャラも高いのは事実だが、人はお金だけでは動かない。
良いスタッフは、お金よりも良い仕事を求めている。私はそう信じたい。
デジタルサイネージであろうがTVCMであろうが、制作現場は変わらない。
特にこれからは、デジタルサイネージのクオリティーが問われてくるはずである。
そうした時にプロフェッショナルなスタッフたちと繋がりがあるかが大切である。
ここではデジタルサイネージのコンテンツ制作や映像制作に関わらず、
私がこれまでに関わった大先輩とのエピソードや大先輩達の武勇伝など
愛して止まないプロフェッショナルなスタッフの事を綴ります。


ブログ#015 今は亡き撮影監督・花柗 功の心に染みる言葉

■撮影とは「影を撮る」と書くんだ!影を創ってくれよ!
■キャメラマンは女房で監督はオヤジだ!俺はお前の女房なんだよ!
■どう撮るかは俺が決める。お前は何を撮るかを決めろ!
■予備カットは一切撮らないぞ!よく考えてから指示出せよ!
■画を見たら音楽が聞こえてきて、音楽を聴いたら画が見えてこなきゃダメだ!
■自然を撮っているじゃない!自然に撮らされているんだ!
■観念じゃなくて「言葉」で説明してくれよ!良くわからん!
■雨の日にしか撮れない画がある、そう思えればいい画が撮れるさ!
■あの日、沢田教一と別れたベトナムのあの道。人生は紙一重だとつくづく思う。
■植村直己とは一年間ひとつのテントで暮らしたが毎日が喧嘩さ。それが楽しかった。
■何かに生かされているんだ。これが大事なことなんだよ!
■何が難しいかって「生」と「死」を同時に切り取ることだろうな!
■デジタルサイネージ?縦型の映像?何これ?イイね。
思い出したら、またアップします。そして、ひとつずつ、少ししずつ書いてゆく決意です。

January 17th, 2020 Toyosaki’s blog


ブログ#042 障がいを持ったカメラマン

 今日は、私の心に残っているカメラマンを紹介したい。1959年山梨県生まれ、山梨県南アルプス市在住の名執弘人(ナトリヒロト)氏である。彼との出会いは1998年の夏である。私が山梨で行われた大きなイベントの演出を担当させて頂いた時に、そのイベントの記録写真を担当していたのが、重い障がいを持った名執氏であった。松葉杖を突いてゆっくりと練習会場に入ってきた名執氏はカメラバックを開き撮影の準備を始める三脚を据えてカメラをセットするまでに優に30分は掛かっている。そして一度決めた場所からは離れない。会場の片隅で何枚の写真をとったのであろうか?私は演技指導をしながらも、いつも名執氏の存在を確認していた。山梨に通い続けて5ヶ月。ようやくイベントの構成が固まった。吹奏楽団の演奏をメインにしたシーンで山梨の歴史や自然など、写真をスライドにして投影する事が決まった。

 山梨で暮らす多くの方々に参加して頂くのがイベントの趣旨だったので、写真も公募となり多くの方から集まってきた。1枚1枚紙焼き写真を拝見して行く中に、現像された36枚撮りのポジフィルムが入っていた。フィルムを広げて愕然としたのは、何と36枚の写真が全部、異なった場所で撮影されているのである。アングルやサイズを変えているのでは無い。ひとつの場所で一度だけシャッターを切り、別の場所に移動してそこでも1枚のみ撮影をする。これを36の場所で撮影された1つのフィルムが目の前にある。ポジフィルムの写真は肉眼では判断できない。しかし、そう言う人もいるかも知れないと思い、ライトテーブルとネガ用ルーペを持参していたので問題無く拝見できた。感動!1枚1枚が本当に素晴らしいアート作品であった。当初は応募してくれた作品の中から、少しでも多くの方が撮影した作品を投影したいと思っていたが、このポジフィルムのみで私の持っていたシーンのイメージは完結してしまった。主催者を説得してこの写真だけ使用する事で了承を貰った。どんなカメラマンの方なのか、挨拶とお礼を言いたいので是非会わせて頂きたい旨を主催者に申し出た。その1時間後にそのカメラマンが演出室入ってきた。名執氏であった。全てが一瞬で繋がった。名執氏と懇談した際にこの36枚撮りのフイルムを一本撮るのにどれ位の時間が掛かっているのかを聞いた。返答は1ヶ月掛かったのこと。撮影場所に行くのに数時間。ポジションを決めセッティングするのに1時間。シャッターチャンスを待つこと数時間。一度シャッターを切ったら、その場の撮影は終了、一日が終わる。今のデジカメの世界では無いので現像するまで作品は確認出来ない。その場でテスト撮影して露出やシャッタースピードも修正出来ない。それなのに36枚のフィルムの全ての写真が素晴らしかった事は、私にとって奇跡でしかない。正にプロフェッショナルである。

 イベント終了後の翌年、まだまだ無名の名執氏の写真を多くの人に知って貰いたく、ある月刊誌でカラー8ページの特集を組んで貰った。写真のチョイスや写真のキャプションなどを相談しに名執氏と再会。「基本的には全て任せます」とのこと。出来上がった雑誌の特集は好評を得た。随分疎遠になっていたが、デジタルサイネージのサイトを立ち上げた時に、名執氏の写真作品を是非デジタルサイネージのコンテンツとして売り出したいとの思いから、久しぶりに連絡を取った。重い障がいに併せて事故による怪我など、状況は厳しさを増していた。彼の作品には力があり、人の心を揺さぶる。もっと多くの人に彼の写真を見て頂きたい。しかし、まだまだ私もピクトパスカルも微力であることが悔しく情けない。何としても、このウィズ・コロナを克服してデジタルサイネージ事業を前に進めていこう。名執氏の著書に「障害があるから、見える世界もある」があるので、興味がある方は読んで頂きたいが絶版でなかなか手に入らないのが残念である。

July 3rd, 2020 Toyosaki’s blog


ブログ#046 グラミー賞を受賞したレコーディング・エンジニア

 私は舞台や映像の世界に入る前は音楽の世界で生きてきた。「生きてきた」というようとも「生きたかった」が正確な表現かも知れない。実際に18歳のクリスマスには原宿のPUBでギャラを貰って演奏していたし、20代前半には横浜のキャバレーやクラブなどで演奏して生活をしていた時期もある。楽器はドラムであった。横浜のキャバレー時代は特に面白く、テレビ番組でドキュメント映画として企画が上がるほど、今では考えられないアナログ人間の面白さが詰まっていた。27歳の時に出会ったレコーディング・エンジニアの鈴木智雄氏は私の遊び半分の音楽活動に終止符を打ってくれた大先輩である。鈴木氏は1968年にCBSソニーに入社。それから約10年わたりソニーミュージックのチーフエンジニアとして多くの作品を生み出してきた。日本人アーティストの代表として。松田聖子18曲、山口百恵、郷ひろみ、さだまさし、加山雄三、森山良子、BEGIN、日野輝正など掲げれば切りがない。しかし日本人のエンジニアとして驚くべき事は、海外アーティストの作品である。シカゴ、ジェフ・ベック、サンタナ、ボブ・ディラン、マイルス・デイビス、ハービー・ハンコック、ウィントン・マルサリス、ウエザーリポート、ウェインショーターなど、世界で活躍している一流アーティストのレコーディングやコンサートのエンジニアを担当している点だ。

 米グラミー賞の録音部門で2度も受賞している超一流のレコーディング・エンジニアである。鈴木氏との出会いは、とあるイベントで私が音楽制作の担当をした時であった。そのイベントの音響責任者であった鈴木氏とは2ヶ月間で13曲のフルオーケストラや混声合唱などのレコーディング。サウンド・シティー、音響ハウス、一口坂スタジオ、スタジオ・ヴィンセントなど、日本を代表する一流レコーディング・スタジオで鈴木氏の背中を見ることが出来た。その後、数回のリハーサルを重ねた上での横浜アリーナの本番を通し、プロフェッショナルとはこうゆう人を指すのであると確信した。ひと言で言えば音に関して一切妥協しない。そして音楽を愛し、仕事を楽しむ。そして謙虚なのである。一流を超して超一流なプロフェッショナルな人は、人間としても超一流である。その鈴木氏とは何度も現場をご一緒させて頂いた。

 初めての出会いから7年後、私が大きな音楽祭の演出に抜擢された時に、胸を借りる想いで音響のチーフを鈴木氏にお願いした。快く引き受けてくれた氏は、私の無理難題の我が儘を全て受け入れて下さった。本番で使用したミキサーの数は、48チェンル8台だったと記憶している。その後日本最大級のジャッズフェスである「東京JAZZ」など貴重な現場をご一緒出来たことは私の誇りである。「一流に触れ続けていくことが、一流への道だ」とはある先輩の言葉であるが、最近は鈴木氏との現場も無くなってしまっている。しかし、鈴木氏は高齢になってきているが音への情熱は高まる一方である。SNSなど見ても常に音への飽くなき追求が綴られている。今なお現役でレコーディング業界のトップをひた走る鈴木氏に学ぶ事は多い。実は私はデジタルサイネージの「音」をもっと大切にしたいと考えている。映像とは画像と音楽の表現である。徹底的に音にこだわったデジタルサイネージの演出が、私が最も追求している世界である。

July 13th, 2020 Toyosaki’s blog


ブログ#049 ライブ中継 12カメ vs 3カメ

日本最大級のジャズフェスティバル「東京JAZZ」が最初に公演されたのは2002年であった。会場は東京スタジアム(現・味の素スタジアム)で世界的なジャズ・ピアニストのハービー・ハンコックが総合プロデューサーを務めた。ハービー・ハンコックが指名したアーティストが世界中から集まり、最後にはスーパー・ユニットとして大セッションを行うとうい斬新的な企画であった。主催はNHKで2日間ともBSデジタルでの生放送も実施された大きなイベントで両日2万人弱の観客動員は日本のジャズフェスでは初めてだ。この企画はNHKエンタープライズのI氏とイベント制作会社のM氏が5年を掛けて実現させてイベントであった。幸運なことに私もI氏やM氏と一緒に5年間に渡り企画に参加させて頂いた。当初はそんな大規模なイベントが実現できるのか半信半疑であった。しかしNHKという巨大な力と両名の情熱で実現させてしまった。二人とも本物のプロデューサーである。

 私もCM制作や、イベント会場のライブ中継など、映像のチーフ・ディレクターとして楽しい思い出を刻ませて頂いた。大盛況を受けた事で2003年は更に企画を膨らませての実施を目指した。NHK・BSの放送陣も相当な力の入れようであった。大型中継車3大、中継スタッフ72名で乗り込んできたのである。私の映像ブースに入ってきて、会場のLEDビジョンの輝度が明るすぎるので下げてくれとが、私がかめたポジションを移動してくれとか、NHK様はいつも我が儘を言う。それも会場で。私のレベルでは喧嘩にしかならないので、NHKのIプロデューサーに入って貰った。BSのディレクターは当然「中継に従ってくれ」と言ってくれると確信していたのであろう。しかしI氏は「これは会場に来てくれた人へのコンサートだ。BSの番組では無い!ゴメンね豊ちゃん、やりたいようにやって」とばっさり。さすが名プロデューサーだ。私のライブ中継スタッフは7名である。NHKは大型クレーンや移動車など計12カメ。私は4カメ。しかも1台のカメラの前をクレーが行き来しっぱなしになったので実質3カメに。絶対的に分が悪そうに見える。しかし私の中継スタッフは余裕と自身を持っていた。中継の善し悪しは、決して人数でもカメラの数でもない事を熟知している。私の中継スタッフは3カメあれば6カメに見せる技術を持っている。そして「どう撮るか」では無く「何を撮るか」を全員が考えているのだ。信頼した通り2日間のライブ映像は素晴らしいものであった。機材を撤収しながら皆の顔が「勝利」「充実」で輝いていた。良きスタッフに恵まれる事は本当にありがい。

 後日談として、BSの番組配信が近づいて来た頃、突然あのBSの担当ディレクターから直接連絡が入った。BSの映像編集が難航していると言う。12カメの映像は客観的に撮影したものばかりで臨場感が無い。そこで、会場で流していた我々の中継映像を貸してくれと言う。更には私が制作した会場用のイベント・オープニング映像も、そのままBSのオープニングで使いと。気持ちは解からないでもないが、NHKのIプロデューサーを通さないのは筋が通らないし、通常であれは金額も発生する。私はM氏に相談してみた。MS氏は「あれでも立場は、I氏のスタッフだ。I氏を通さずに、ただで貸してあげな」と。さすが、こちらも男気のある名プロデューサーである。ちなみに、このM氏は私の前前社の社長で、私を育ててくれた恩師である。そしてBSの担当ディレクターも良い番組制作の為なら、恥も外聞も無いとの態度はプロフェッショナルであると思う。そして中継を担当してくれた会社は「ブラボーゥ」いかした社名だ。

 2回のスタジアム・フェスは無事に終えられたが、やはり日本でジャズに2万人を超える観客を集めることとNHKの予算縮小で、会場は2004年からは東京ビックサイトへ移動した。私はこの時点で降板している。2006年からは東京国際フォーラムへと会場が移り、この年からプロデューサーであったハービー・ハンコックも降板となるが、2013、2015、2018年にはゲストプレヤーとして参加している。更に2017年には会場をNHKホールへ移動。そして19回を迎える本年はコロナで中止となったしまった。明年の20回は大きな節目である。これだけ続いた貴重なジャズフェスを絶やしてはならない。そしてデジタルサイネージの映像制作も「どう撮るか」では無く「何を撮るか」を考え続けている。

July 20th, 2020 Toyosaki’s blog


ブログ#051 ブロードウェイの演出家 ジョン・ケアードとの出会い

 私は意外とラッキーだと思っている。人との出会いだけは恵まれている。お金との出会いは皆無だ。私が、ブロードウェイの演出家であるジョン・ケアードと出会ったのは2014年であった。ジョン・ケアードはイギリスの舞台演出家で、「レ・ミゼラブル」と「レ・ミゼ「ニコラス・ニクルビー」でトニー賞を2度受賞している。トニー賞は、映画のアカデミー賞、音楽のグラミー賞と並ぶ、ミュージカルに関する最高の賞である。ジョン・ケアードが日本で演出した作品は「世界は我が家」であった。「世界は我が家」は、あしなが育英会とヴァッサー大学(米国ニューヨーク州 小説「あしながおじさん」の著者ジーン・ウェブスターの母校)が企画したミュージカルで、アフリカ、アジア、北米、ヨーロッパの四大陸を音楽で一つにする特別共同公演で仙台と東京で開催された。内容はウガンダのNGO「あしながウガンダ」が運営する“寺子屋”で教育を受けている子供たちによる歌と踊り、ヴァッサー大学コーラス部のメンバーによる合唱、2011年3月11日に発生した東日本大震災・津波によって壊滅的な被害を受けた東北地方の子供たちによる伝統的な和太鼓演奏のコラボである。また、1914年にブロードウェイでミュージカル「あしながおじさん」が初演されてから、ちょうど100年にあたり、小説「あしながおじさん」の著者ジーンウェブスターの母校であるヴァッサー大学と、「あしなが育英会」の協力関係のもと、両者が踏み出す新たな一歩を象徴するものであった。

 私がこの公演に関われたのは、東北の震災1年後から、震災で危害にあった和太鼓チームの取材を続けてきたからである。東北の和太鼓については、いつか詳しく書くつもりである。私が感銘を受けたのがジョン・ケアードの演出の手腕であった。ウガンダのダンスと歌、日本の和太鼓、西洋の聖歌隊を、ものの見事に融合させてゆく発想の柔軟さ。東北での合宿リハーサルで学んだジョン・ケアードの演出は素晴らしいものであった。3月31日の東北公演は秋篠宮殿下並びに眞子内親王殿下もご鑑賞になり、大成功に終わった。そして東京へ拠点を移してからも取材は続いた。ジョン・ケアードは更に3団体の可能性を広げる演出に挑戦し、見事にまとめ上げた形で東京公演に望んだ。決して無理な要求はせず、出来るだけ自発的に自然に、それぞれの価値を癒合させ合うという演出は見事であった。このサイトはデジタルサイネージのコンテンツ販売サイトであるが、コンテンツの制作は、こんな仕事の延長にある小さな積み重ねである。

 余談ではあるが、演出のジョン・ケアードと並んで、私が感動していたことがある。それは、ジョン・ケアードの通訳である。日本人の女性で、その立ち振る舞い、通訳の言葉の選びから表現まで、全てが美しい。まるで舞台の一幕を見ている様でであった。さらに容姿もかなりの美しさで、私のイメージしている「日本人女性通訳」とは、まるで異次元の存在であったであった。誤解が無いように言っておくが、全ての「日本人女性通訳」が私のイメージしている人とは限らないし、「翻訳」そのものが本業なのだから「立ち振る舞い」も「容姿」も「翻訳」の本質とは関係ない。ただジョン・ケアードの翻訳は、全てが美しすぎていたのだ。あるスタッフに彼女の事を聞いてみると「ああ、彼女はジョン・ケアードの奥さんで、2007年から2009年まで、ブロードウェイの「レ・ミゼラブル」公演でファンティーヌを演じた今井麻緒子さんだよ」と。それは、容姿も、立ち振る舞いも、ジョン・ケアードの意図を伝える言葉や仕草も、美しくて当然である。世界を代表する演出家であるジョン・ケアードと共に、彼の創作を支える彼女との出会いは、普段の仕事では得られない貴重な時間となった。

July 25th, 2020 Toyosaki’s blog


ブログ#073 デジタルサイネージと「鬼滅の刃・竈門炭治郎のうた」

 今、爆発的な人気アニメである「鬼滅の刃」。社会現象とまでなっているこのアニメの魅力とは、一体何であろうか?ファン待望の劇場版『鬼滅の刃 無限列車編』が、2020年10月16日に公開され、好評を得ている。実はこの「鬼滅の刃」、テレビ放送が始まった時に存在を知った。ある有名ゲームメーカーの展示会のデジタルサイネージで、この「鬼滅の刃」の編集のお仕事を請け負ったのだ。そんなに大変な仕事ではなかったが、この「鬼滅の刃」の予告編を見て、普段はあまりアニメに興味のなかった私でも、このストリーはどう展開していくのであろうと興味を持ったことを覚えている。そんな時に、私がお世話になっているナレーターの中川奈美さんのSNS記事を目にすることになった。奈美さんは、この数年間、私が最も信頼してナレーションをお願いしているが、実は歌手であり俳優でありと様々な活動をしている。本業は歌うことなのであろうが、その「声の力」はナレーションでも本領を発揮できる。奈美さん以外にもデジタルサイネージのナレーションで協力して頂いている。彼女のブレーンも素晴らしい人材が多い。

 実は私、ナレーターから、自分の呼吸、間、抑揚などに合わないと厳しいダメ出しをする「鬼」と呼ばれていた時期がある(今はそんなにしていません)。「鬼滅の刃」であれば「十二鬼月」に入るかも知れない。そんな中で、中川奈美さんはピカイチな存在であった。奈美さんのSNSには「鬼滅の刃」の挿入歌のコーラスを任されたことが綴ってあった。その時、奈美さんに「俺も鬼滅、ちょっとだけやったよ」と話したら、すごく喜んでくれて、鬼滅への入れ込みも感じられた。そして最近嬉しいニュースが飛び込んできた。鬼滅の主題歌、LiSAの歌う「紅蓮華」の大ヒットは皆知るところだが、実はアニメの挿入歌に「竈門炭治郎のうた」という歌がある。この歌を任されたのが奈美さんであった。詳しい経緯は聞いていないが、人気アニメの挿入歌を歌うということが、どれだけ難しく、素晴らしいことか。そして、10月27日発表の最新「オリコン週間デジタルシングル・ランキング」で、「竈門炭治郎のうた」が堂々の3位を飾ったのだ。週間DL数1.8万DL。「素晴らしい。おめでとう。」と奈美さんにメールすると、こんな言葉が帰ってきた「これで、少しはお役にたてるようになってきましたでしょうか?」と。声の力も素晴らしいが、人間としての魅力が溢れているプロフェッショナルで素敵な歌姫である。

November 4th, 2020 Toyosaki’s blog


ブログ#083 冒険家・植村直己にあこがれて

 植村直己といえば、世界的な冒険家として知られている。 植村直己は1970年に世界最高峰エベレストに日本人で初めて登頂し、同年に、世界初の五大陸最高峰登頂者となった。1978年に犬ぞりでの単独行としては、世界で初めて北極点に到達した。1984年2月13日、冬期のマッキンリーに世界で初めて単独登頂したが、下山中に消息不明となった。このマッキンリー単独登頂の記録取材に同行したビデオカメラマンが、弊社に所属していた撮影監督・花柗 功であった。1984年に植村直己消息不明のニュースを知った私は、冒険家・植村直己の本を読みあさったものだ。

 特に私が興味を持ったのが、植村直己の妻、植村公子さんであった。世界を代表する冒険家の妻は、とてもチャーミングな女性であった。そんな冒険家をどうやって支えたのかに興味があったのだ。植村直己に関する書物は多くあるが、マッキンリー単独登頂以外にも、一年間も植村と二人きりでテントで寝食をともにしたし、多くの時間を共有した花柗の話が私の宝となっている。そこでも妻の公子の話が多く出てきた。時には植村直己、公子さん、花柗の三人で飲み明かしたらしい。色々なエピソードを聞かされたが、やはり、公子さんの許可を得て2002年10月に発刊された「植村直己 妻への手紙 (文春新書)」が冒険家・植村直己の人間性を物語っている。この本には、植村直己が妻に送った手紙143通と絵日記26枚が収まっている。手紙は結婚する1974年から最後の手紙となった1984年まで、世紀の冒険家が生涯を誓い合った夫人に、極限の旅先から書き送った数々の手紙は、冒険家の生々しい素顔と愛情あふれる文面が胸をうつ。

 花柗から公子さんを紹介してもらう約束だったが、花柗も3年前位に旅立ってしまった。大事な事を後回ししてはいけない。私は、植村直己ではなく、公子さんのドキュメントを作りたいとの想いがあった。その夢を叶えるためにも、デジタルサイネージの事業を成功させなければならない。コロナ渦の現実と夢の間で「植村直己 妻への手紙」を読み返している。

January 6th, 2021 Toyosaki’s blog


ブログ#179 ナイスガイなラスベガスの映像スタッフ

 随分昔の話であるが、ラスベガスで日本の大手自動車メーカーのコンベンションが行われた。私は映像ディレクターとして現地に入った。経費削減のために、映像スタッフは全員ラスベガスのスタッフで行う。映像コンテンツも現地で制作するので、私だけコンベンション会場ではなく、映像の編集スタジオに向かった。私はネイティブ・スピーカーではないので、通訳を頼んだが願いは叶わなかった。さすがにラスベガスの編集スタジオは最先端の機材で、ノンリニアの編集設備であった。オペレーターと二人きりで2日間、たかこと英語で何とかコンテンツを完成させた。若いオペレーターだったが、色々なアイデアを出してくる優秀なスタッフに、私は助けられた。

 本番日の午前中はテクニカルリハーサルや、ダンス、マジックなのリハーサルだったが、時間を大幅に押していた。ラスベガスだけではなく、日本のタイムスケージュール通りに進めてくれる国なんて何処にもないのである。開場時間ギリギリまで行ったリハーサルで問題が起こった。マジックの大道具が多すぎて、次のダンスまでに転換が間に合わないのである。必要な時間は30秒。この30秒をどうやって埋めるかさえ決まらないまま開場となってしまった。

 映像スタッフは、開場から本番までの30分は休憩時間である。みなコーヒーとたばこを持って会場を出ようとしていた。私が映像チームのチーフに「今から30分間で30秒の【ラスベガスと映画スター】みたいなVTRを作りたいので力を貸してほしい」と言うと、チーフは休憩に向かうスタッフに「ヘイ!このクレージーボーイが、今から30分間で30秒の【ラスベガスと映画スター】みたいなVTRを作りたいと言っている。みんな、どうする?」一人のスタッフが「つなげる素材は決まっているのか?」と聞いた。私は「いや。今から探す」と言うと、みなが揃って「オー、クレイジー!」と叫んだ。そして3人のスタッフが会場にもどって編集を手伝ってくれたのである。当時はまだテープの時代で、クリップごとの映像アーカイブなどなかった。3人のフタッフがVHSテープらか使えそうなカットを探し頭出しして、次のテープでカット探す。10カット揃ったところで、私が順番を決めてダビングしていくとう、超アナログ的な編集であった。

 本番10分前に、演出家から「今、何やってる?」との無線が入ってきた。私は「30秒の転換用VTRを編集中です。あと5分で完成しますから、見ますか?」と返すと、「やっぱりね。いいよ、任せる。」と笑いながら応えた。本番は何事も無かったようにスムーズに展開していく。そしてこれが最初から考えられていた演出でないことにクライアントからの絶賛の評価を頂くことになったのである。コンベンション終了後、映像スタッフ全員にコーヒーを奢らせられたが、本当にナイスガイな素晴らしいスタッフたちであった。

 撤収も終わったので、スタッフみんなでカジノに乗り出した。ポーカーをやる者、ルーレットに挑む者、みながラスベガス・ナイトを満喫していた。私はギャンブルの才能は無いので、一番安いポーカーゲームマシンで時間を潰していた。1回が1クオーターなので30円ぐらいの勝負。ところがいきなり、私のマシンのサイレンが回りだしたのである。良く見てみると。これは「ロイヤルス・トレート・フラッシュ」ではないか!バニーガールのきれいなお姉さんが1000ドルを持ってきてくれた。30円が12万円である。最大に賭けていれば48万になっていた。しかし、こうして手に入れたお金は使い切ることが肝心だ。私は1回マックス30ドル(3600円)のスロットマシンに挑戦。スリー7が揃えば、7億円になるマシンだ。案の定、15分で12万は煙のように消えてしまった。さらばラスベガス・ナイト。

August 26th, 2021 Toyosaki’s blog


ブログ#235 結婚と離婚のプロフェッショナル達

 今日から11月。衆議院選挙も終わった。コロナで打撃を受けている人々に、いち早く救済の政策を進めてほしいと心から願う。そして今日はおかしなタイトルのブログだ。本当のところデジタルサイネージとは全く関係ない。いや全くとはいえないがデジタルサイネージの話ではない。興味が湧けば、面白半分に読んでみてほしい。決して他人事でもない話である。

 まず、どうでもいいが私の結婚感は、この人だと勘違いして結婚してしまったら、しばらくは様子を見てみよう。何とか我慢できる相手なら子供を創ってもいいだろう。子供が出来てしまったら責任が生まれるので、もう少し(限界まで)我慢して一緒に暮らそう。でも、一緒にいることでお互いや子供が不幸になるのであれば、離婚の選択もありだと思う。その方が長い目で見てお互いが幸せな人生を送れる気がする。要はどんな環境であれ、状況であれ、結婚も離婚もお互いの幸福の為の選択でしかないというのが、私の持論である。

 私の周りには、この結婚と離婚のプロフェッショナルというか、猛者が多くいる。普通はバツ1とかバツ2まではいるだろう。私の周りでも普通にいる。でも私の周りには、その上をいく猛者が結構いるのだ。それもかなり親密にお付き合いをしていただいている人が多い。名前は伏せるが、私の仕事の師匠は3人目のかみさんである。これは離婚2回結婚3回を体験したことになる。師匠いわく「結婚なんて簡単だけど、離婚はエネルギーがいる」といっていた。確かに結婚と離婚の数が多い人はエネルギッシュで仕事も出来る人が多い。

 私の撮影の師匠はバツ3である。3人の女房の間にはそれぞれ子供もいた。3人の女房に家を買い与え、養育費を払い、最後は一人で生活保護を受けた人生。3人の女房の離婚の理由は、「1年以上連絡が取れず、音信普通だから」であると聞いた。撮影の師匠に、何で連絡しなかったのかを効くと「ひとり目の女房の時は、グーリーンランド1年間、植村直己と二人きりでテント暮らしをしていた」「ふたり目の女房の時は、アフリカのサハラ砂漠で、たった一人で1年間、砂漠の移動を撮影していた」「3人目の女房の時は、どこにいたか覚えていない」と返ってきた。これは逃げた女房が正解である。

 近年、私の周りに結婚と離婚の記録保持者が、連続現れることになる。その一人は、現在の女房が4人目だという。何たるエネルギーかと思っていると、直ぐにバツ4だというアーティストが現れた。離婚のエネルギーは想像できるが、私は体験したことがない。
それを、なんと4回も経験してきた女性が現れたのだ。それも、かなり親しい関係である。こうして私の周りには「猛者」が増えていき、いずれは私もその「猛者」の仲間になっていくのであろうと、人生を振り返る毎日である。

 そんなことを思っていた矢先、バツ4の女性アーティストからメールが届いた。「とよさん、5回目にチャレンジするよー!」。初めは何のことかわからなかったが、5度目の結婚にチャレンジするという。結婚を「チャレンジ」と捉えている彼女のパワーを、少しだけでもいいので分けてもらいと思う。今後私の周りにはバツ6とか再婚10回目とか、とんでもない人生の猛者が現れるかもしれない。でもそんな勇気の無い私としては1.2回で十分かなと思っている、小さな、小さな男です。そして、そして、ちょっとだけ寂しい。

November 1st, 2021 Toyosaki’s blog