プロフェッショナルなスタッフたち

良きスタッフに恵まれる事は最大の歓びであり誇りである。
これは決して制作費があるから優秀なスタッフと繋がるわけではないと思っている。
もちろん優秀なスタッフはギャラも高いのは事実だが、人はお金だけでは動かない。
良いスタッフは、お金よりも良い仕事を求めている。私はそう信じたい。
デジタルサイネージであろうがTVCMであろうが、制作現場は変わらない。
特にこれからは、デジタルサイネージのクオリティーが問われてくるはずである。
そうした時にプロフェッショナルなスタッフたちと繋がりがあるかが大切である。
ここではデジタルサイネージのコンテンツ制作や映像制作に関わらず、
私がこれまでに関わった大先輩とのエピソードや大先輩達の武勇伝など
愛して止まないプロフェッショナルなスタッフの事を綴ります。


ブログ#015 今は亡き撮影監督・花柗 功の心に染みる言葉

■撮影とは「影を撮る」と書くんだ!影を創ってくれよ!
■キャメラマンは女房で監督はオヤジだ!俺はお前の女房なんだよ!
■どう撮るかは俺が決める。お前は何を撮るかを決めろ!
■予備カットは一切撮らないぞ!よく考えてから指示出せよ!
■画を見たら音楽が聞こえてきて、音楽を聴いたら画が見えてこなきゃダメだ!
■自然を撮っているじゃない!自然に撮らされているんだ!
■観念じゃなくて「言葉」で説明してくれよ!良くわからん!
■雨の日にしか撮れない画がある、そう思えればいい画が撮れるさ!
■あの日、沢田教一と別れたベトナムのあの道。人生は紙一重だとつくづく思う。
■植村直己とは一年間ひとつのテントで暮らしたが毎日が喧嘩さ。それが楽しかった。
■何かに生かされているんだ。これが大事なことなんだよ!
■何が難しいかって「生」と「死」を同時に切り取ることだろうな!
■デジタルサイネージ?縦型の映像?何これ?イイね。

思い出したら、またアップします。そして、ひとつずつ、少ししずつ書いてゆく決意です。

January 17th, 2020 Toyosaki’s blog


ブログ#046 グラミー賞を受賞したレコーディング・エンジニア

私は舞台や映像の世界に入る前は音楽の世界で生きてきた。「生きてきた」というようとも「生きたかった」が正確な表現かも知れない。実際に18歳のクリスマスには原宿のPUBでギャラを貰って演奏していたし、20代前半には横浜のキャバレーやクラブなどで演奏して生活をしていた時期もある。楽器はドラムであった。横浜のキャバレー時代は特に面白く、テレビ番組でドキュメント映画として企画が上がるほど、今では考えられないアナログ人間の面白さが詰まっていた。27歳の時に出会ったレコーディング・エンジニアの鈴木智雄氏は私の遊び半分の音楽活動に終止符を打ってくれた大先輩である。鈴木氏は1968年にCBSソニーに入社。それから約10年わたりソニーミュージックのチーフエンジニアとして多くの作品を生み出してきた。日本人アーティストの代表として。松田聖子18曲、山口百恵、郷ひろみ、さだまさし、加山雄三、森山良子、BEGIN、日野輝正など掲げれば切りがない。しかし日本人のエンジニアとして驚くべき事は、海外アーティストの作品である。シカゴ、ジェフ・ベック、サンタナ、ボブ・ディラン、マイルス・デイビス、ハービー・ハンコック、ウィントン・マルサリス、ウエザーリポート、ウェインショーターなど、世界で活躍している一流アーティストのレコーディングやコンサートのエンジニアを担当している点だ。米グラミー賞の録音部門で2度も受賞している超一流のレコーディング・エンジニアである。鈴木氏との出会いは、とあるイベントで私が音楽制作の担当をした時であった。そのイベントの音響責任者であった鈴木氏とは2ヶ月間で13曲のフルオーケストラや混声合唱などのレコーディング。サウンド・シティー、音響ハウス、一口坂スタジオ、スタジオ・ヴィンセントなど、日本を代表する一流レコーディング・スタジオで鈴木氏の背中を見ることが出来た。その後、数回のリハーサルを重ねた上での横浜アリーナの本番を通し、プロフェッショナルとはこうゆう人を指すのであると確信した。ひと言で言えば音に関して一切妥協しない。そして音楽を愛し、仕事を楽しむ。そして謙虚なのである。一流を超して超一流なプロフェッショナルな人は、人間としても超一流である。その鈴木氏とは何度も現場をご一緒させて頂いた。初めての出会いから7年後、私が大きな音楽祭の演出に抜擢された時に、胸を借りる想いで音響のチーフを鈴木氏にお願いした。快く引き受けてくれた氏は、私の無理難題の我が儘を全て受け入れて下さった。本番で使用したミキサーの数は、48チェンル8台だったと記憶している。その後日本最大級のジャッズフェスである「東京JAZZ」など貴重な現場をご一緒出来たことは私の誇りである。「一流に触れ続けていくことが、一流への道だ」とはある先輩の言葉であるが、最近は鈴木氏との現場も無くなってしまっている。しかし、鈴木氏は高齢になってきているが音への情熱は高まる一方である。SNSなど見ても常に音への飽くなき追求が綴られている。今なお現役でレコーディング業界のトップをひた走る鈴木氏に学ぶ事は多い。実は私はデジタルサイネージの「音」をもっと大切にしたいと考えている。映像とは画像と音楽の表現である。徹底的に音にこだわったデジタルサイネージの演出が、私が最も追求している世界である。

July 13th, 2020 Toyosaki’s blog


ブログ#049 ライブ中継 12カメ vs 3カメ

日本最大級のジャズフェスティバル「東京JAZZ」が最初に公演されたのは2002年であった。会場は東京スタジアム(現・味の素スタジアム)で世界的なジャズ・ピアニストのハービー・ハンコックが総合プロデューサーを務めた。ハービー・ハンコックが指名したアーティストが世界中から集まり、最後にはスーパー・ユニットとして大セッションを行うとうい斬新的な企画であった。主催はNHKで2日間ともBSデジタルでの生放送も実施された大きなイベントで両日2万人弱の観客動員は日本のジャズフェスでは初めてだ。この企画はNHKエンタープライズのI氏とイベント制作会社のM氏が5年を掛けて実現させてイベントであった。幸運なことに私もI氏やM氏と一緒に5年間に渡り企画に参加させて頂いた。当初はそんな大規模なイベントが実現できるのか半信半疑であった。しかしNHKという巨大な力と両名の情熱で実現させてしまった。二人とも本物のプロデューサーである。私もCM制作や、イベント会場のライブ中継など、映像のチーフ・ディレクターとして楽しい思い出を刻ませて頂いた。大盛況を受けた事で2003年は更に企画を膨らませての実施を目指した。NHK・BSの放送陣も相当な力の入れようであった。大型中継車3大、中継スタッフ72名で乗り込んできたのである。私の映像ブースに入ってきて、会場のLEDビジョンの輝度が明るすぎるので下げてくれとが、私がかめたポジションを移動してくれとか、NHK様はいつも我が儘を言う。それも会場で。私のレベルでは喧嘩にしかならないので、NHKのIプロデューサーに入って貰った。BSのディレクターは当然「中継に従ってくれ」と言ってくれると確信していたのであろう。しかしI氏は「これは会場に来てくれた人へのコンサートだ。BSの番組では無い!ゴメンね豊ちゃん、やりたいようにやって」とばっさり。さすが名プロデューサーだ。私のライブ中継スタッフは7名である。NHKは大型クレーンや移動車など計12カメ。私は4カメ。しかも1台のカメラの前をクレーが行き来しっぱなしになったので実質3カメに。絶対的に分が悪そうに見える。しかし私の中継スタッフは余裕と自身を持っていた。中継の善し悪しは、決して人数でもカメラの数でもない事を熟知している。私の中継スタッフは3カメあれば6カメに見せる技術を持っている。そして「どう撮るか」では無く「何を撮るか」を全員が考えているのだ。信頼した通り2日間のライブ映像は素晴らしいものであった。機材を撤収しながら皆の顔が「勝利」「充実」で輝いていた。良きスタッフに恵まれる事は本当にありがい。後日談として、BSの番組配信が近づいて来た頃、突然あのBSの担当ディレクターから直接連絡が入った。BSの映像編集が難航していると言う。12カメの映像は客観的に撮影したものばかりで臨場感が無い。そこで、会場で流していた我々の中継映像を貸してくれと言う。更には私が制作した会場用のイベント・オープニング映像も、そのままBSのオープニングで使いと。気持ちは解からないでもないが、NHKのIプロデューサーを通さないのは筋が通らないし、通常であれは金額も発生する。私はM氏に相談してみた。MS氏は「あれでも立場は、I氏のスタッフだ。I氏を通さずに、ただで貸してあげな」と。さすが、こちらも男気のある名プロデューサーである。ちなみに、このM氏は私の前前社の社長で、私を育ててくれた恩師である。そしてBSの担当ディレクターも良い番組制作の為なら、恥も外聞も無いとの態度はプロフェッショナルであると思う。そして中継を担当してくれた会社は「ブラボーゥ」いかした社名だ。2回のスタジアム・フェスは無事に終えられたが、やはり日本でジャズに2万人を超える観客を集めることとNHKの予算縮小で、会場は2004年からは東京ビックサイトへ移動した。私はこの時点で降板している。2006年からは東京国際フォーラムへと会場が移り、この年からプロデューサーであったハービー・ハンコックも降板となるが、2013、2015、2018年にはゲストプレヤーとして参加している。更に2017年には会場をNHKホールへ移動。そして19回を迎える本年はコロナで中止となったしまった。明年の20回は大きな節目である。これだけ続いた貴重なジャズフェスを絶やしてはならない。そしてデジタルサイネージの映像制作も「どう撮るか」では無く「何を撮るか」を考え続けている。

July 20th, 2020 Toyosaki’s blog


ブログ#051 ブロードウェイの演出家 ジョン・ケアードとの出会い

私は意外とラッキーだと思っている。人との出会いだけは恵まれている。お金との出会いは皆無だ。私が、ブロードウェイの演出家であるジョン・ケアードと出会ったのは2014年であった。ジョン・ケアードはイギリスの舞台演出家で、「レ・ミゼラブル」と「レ・ミゼ「ニコラス・ニクルビー」でトニー賞を2度受賞している。トニー賞は、映画のアカデミー賞、音楽のグラミー賞と並ぶ、ミュージカルに関する最高の賞である。ジョン・ケアードが日本で演出した作品は「世界は我が家」であった。「世界は我が家」は、あしなが育英会とヴァッサー大学(米国ニューヨーク州 小説「あしながおじさん」の著者ジーン・ウェブスターの母校)が企画したミュージカルで、アフリカ、アジア、北米、ヨーロッパの四大陸を音楽で一つにする特別共同公演で仙台と東京で開催された。内容はウガンダのNGO「あしながウガンダ」が運営する“寺子屋”で教育を受けている子供たちによる歌と踊り、ヴァッサー大学コーラス部のメンバーによる合唱、2011年3月11日に発生した東日本大震災・津波によって壊滅的な被害を受けた東北地方の子供たちによる伝統的な和太鼓演奏のコラボである。また、1914年にブロードウェイでミュージカル「あしながおじさん」が初演されてから、ちょうど100年にあたり、小説「あしながおじさん」の著者ジーンウェブスターの母校であるヴァッサー大学と、「あしなが育英会」の協力関係のもと、両者が踏み出す新たな一歩を象徴するものであった。私がこの公演に関われたのは、東北の震災1年後から、震災で危害にあった和太鼓チームの取材を続けてきたからである。東北の和太鼓については、いつか詳しく書くつもりである。私が感銘を受けたのがジョン・ケアードの演出の手腕であった。ウガンダのダンスと歌、日本の和太鼓、西洋の聖歌隊を、ものの見事に融合させてゆく発想の柔軟さ。東北での合宿リハーサルで学んだジョン・ケアードの演出は素晴らしいものであった。3月31日の東北公演は秋篠宮殿下並びに眞子内親王殿下もご鑑賞になり、大成功に終わった。そして東京へ拠点を移してからも取材は続いた。ジョン・ケアードは更に3団体の可能性を広げる演出に挑戦し、見事にまとめ上げた形で東京公演に望んだ。決して無理な要求はせず、出来るだけ自発的に自然に、それぞれの価値を癒合させ合うという演出は見事であった。このサイトはデジタルサイネージのコンテンツ販売サイトであるが、コンテンツの制作は、こんな仕事の延長にある小さな積み重ねである。余談ではあるが、演出のジョン・ケアードと並んで、私が感動していたことがある。それは、ジョン・ケアードの通訳である。日本人の女性で、その立ち振る舞い、通訳の言葉の選びから表現まで、全てが美しい。まるで舞台の一幕を見ている様でであった。さらに容姿もかなりの美しさで、私のイメージしている「日本人女性通訳」とは、まるで異次元の存在であったであった。誤解が無いように言っておくが、全ての「日本人女性通訳」が私のイメージしている人とは限らないし、「翻訳」そのものが本業なのだから「立ち振る舞い」も「容姿」も「翻訳」の本質とは関係ない。ただジョン・ケアードの翻訳は、全てが美しすぎていたのだ。あるスタッフに彼女の事を聞いてみると「ああ、彼女はジョン・ケアードの奥さんで、2007年から2009年まで、ブロードウェイの「レ・ミゼラブル」公演でファンティーヌを演じた今井麻緒子さんだよ」と。それは、容姿も、立ち振る舞いも、ジョン・ケアードの意図を伝える言葉や仕草も、美しくて当然である。世界を代表する演出家であるジョン・ケアードと共に、彼の創作を支える彼女との出会いは、普段の仕事では得られない貴重な時間となった。

July 25th, 2020 Toyosaki’s blog